ルイ1世 (バル公)とは? わかりやすく解説

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ルイ1世 (バル公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/10 14:18 UTC 版)

ルイ1世
Louis I
バル公
1429年のシャルル7世の戴冠式におけるバル公ルイ1世とロレーヌ公
在位 1415年 - 1430年

出生 1370/5年
死去 1430年6月23日
フランス王国ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ
家名 スカルポン家
父親 バル公ロベール1世
母親 マリー・ド・フランス
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ルイ・ド・バル
枢機卿
司教区 ヴェルダン
聖職
司教叙階 1419年 - 1423年
1424年 - 1430年
枢機卿任命 1391年
紋章
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ルイ1世フランス語:Louis I, 1370/5年 - 1430年6月23日)は、15世紀フランスの司教、およびバル公(在位:1415年 - 1430年)。1420年以降、大甥ルネ・ダンジューの側近としてバル公領を支配した。

生涯

ルイはバル公ロベール1世マリー・ド・フランスの息子である[1]。五男として、ルイは聖職に付くことが定められていた。ポワティエ司教(1391年 - 1395年、1391年より枢機卿にもなる)、ラングル司教(1397年 - 1413年)[2]、およびシャロン=シュル=マルヌ司教(1413年 - 1430年)を歴任した。また、ヴェルダン司教(1419年 - 1423年、1424年 - 1430年)も兼任した。

ルイは1407年にオルレアン公ルイののち、フランスの政界で重要な役割を果たした。1409年、ルイはランス大司教ギ・ド・ロアイユおよびカンブレー司教ピエール・ダイイとともにピサ教会会議に参加した。ジェーヌ近くのヴォルティにおいて、町長とランス大司教の対立は暴動に発展し、ランス大司教は殺害され、ルイは行方不明となり死去したとみられる。ピサを訪れた枢機卿らは、アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世およびローマ教皇グレゴリウス12世を退位させようと企て、新たにアレクサンデル5世を選出し、教会大分裂を終わらせようとした。しかしそれどころか、ピサの教皇ヨハネス23世コンスタンツ公会議(1414年 - 1418年)の開催を呼びかけるまで3人の教皇が並立することとなった。公会議ではローマのグレゴリウス12世およびピサのヨハネス23世をともに廃位し、アヴィニョンのベネディクトゥス13世を破門にし、新たにマルティヌス5世をローマ教皇に選出した。

エドゥアール3世が1415年にアジャンクールの戦いで戦死したため、ルイはバル公領を継承し、聖職者であるルイが公領を継承することに異議を唱える義弟ユーリヒベルク公アドルフの主張を抑えることに成功した。1419年、数世紀にわたるバル公とロレーヌ公の不和に終止符を打つため、ルイは大甥ルネ・ダンジューイザベル・ド・ロレーヌロレーヌ公シャルル2世の娘で継承者)の結婚の交渉を行い、1420年代には2人にバル公領の統治を委ねた。

脚注

  1. ^ Vaughan 2009, p. 264.
  2. ^ Vaughan 2009, p. 164.

参考文献

先代
エドゥアール3世
バル公
1415年 - 1430年
次代
ルネ・ダンジュー



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