ヨハン (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 08:37 UTC 版)
ヨハン・フォン・ブランデンブルク Johann von Brandenburg |
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ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯 | |
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在位 | 1440年 - 1457年 |
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出生 | 1406年 |
死去 | 1464年11月16日![]() クルムバッハ辺境伯領、バイアースドルフ |
配偶者 | バルバラ・フォン・ザクセン |
子女 | バルバラ ルドルフ エリーザベト ドロテア |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世 |
母親 | エリーザベト・フォン・バイエルン |
ヨハン・フォン・ブランデンブルク(Johann von Brandenburg, 1406年 - 1464年11月16日)は、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯。錬金術伯(der Alchimist)とも呼ばれる。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世と下バイエルン=ランツフート公フリードリヒの娘エリーザベトの長男。選帝侯フリードリヒ2世、アルブレヒト・アヒレスの兄。
生涯
父フリードリヒ1世存命中に、ブランデンブルク統治を任されたが、錬金術に熱中し政治的に無能であったため、フリードリヒ1世は失望し、自らの死に際しブランデンブルク選帝侯位は次男のフリードリヒ2世に継承させ、ヨハンはクルムバッハ辺境伯領を継承した[1]。ヨハンは宮廷をクルムバッハのプラッセンブルクに置いた。正嫡の息子がいなかったため、1457年に退位した後の辺境伯位は弟のアルブレヒト・アヒレスが継承した。
子供
ザクセン選帝侯ルドルフ3世の娘バルバラと結婚した。彼らの子供は以下の通り。
- バルバラ(1423年 - 1478年) - マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガと結婚。
- ルドルフ(1424年)
- エリーザベト(1425年 - 1465年) - ポメラニア=シュチェチン公ヨアヒム1世と結婚、1453年にポメラニア=ヴォルガスト=バルト公ヴァルティスラフ10世と結婚。
- ドロテア(1430年 - 1495年) - デンマーク・ノルウェー・スウェーデン王クリストファ3世、次いでクリスチャン1世と結婚。
他に庶子のフリッツ・フォン・ブランデンブルクがいる。
脚注
- ^ 岡地、付録p. 64
参考文献
- 岡地稔 『あだ名で読む中世史』 八坂書房、2018年
- M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5
外部リンク
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「ヨハン (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)」の例文・使い方・用例・文例
- また,この時期,ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハやヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブランドなどの有名な建築家によって新しいバロック様式の建物がいくつか設計された。
- 1812年にスイスの探検家ヨハン・ルードヴィッヒ・ブルクハルトによって発見されるまで,ペトラは数世紀に渡って忘れ去られていた。
- 彼はブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)を派遣し,ブルース・バナー博士(マーク・ラファロ)をチームに誘う。
- 高度な訓練を受けたスパイでアベンジャーズのメンバーであるブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)とともに,彼はその陰謀をあばこうとする。
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