マルセロ・ポンテス・ロペス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 06:37 UTC 版)
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名前 | ||||||
愛称 | マルセロ | |||||
カタカナ | マルセロ・ポンテス・ロペス | |||||
ラテン文字 | MARCELLO Pontes Lopes | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年10月15日 | |||||
出身地 | リオデジャネイロ州 | |||||
没年月日 | 2012年5月6日(45歳没) | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マルセロ・ポンテス・ロペス(葡: MARCELLO Pontes Lopes、1966年10月15日 - 2012年5月6日)は、ブラジル出身のサッカー指導者(フィジカルコーチ)。
来歴
元々はプロサッカー選手を目指していたが、いくつかのクラブのテストを受けるもいずれも不合格であったため、15歳で選手への道を断念した[1]。その後、大学の体育学部で学んだことがきっかけになり、フィジカルコーチの職業を選ぶことになった[1]。
在学中にフットサルのクラブで2年間コーチ経験を積み、卒業と同時に21歳でフラメンゴのフィジカルコーチに就任。1996年、フラメンゴで出会ったジーコに誘われる形で鹿島アントラーズのフィジカルコーチとして来日した[1]。鹿島退団後はブラジルへ帰国するが、ブラジルでも行動を共にしていたジョアン・カルロスの名古屋グランパスエイト監督就任に伴い再来日する。その後も長期に渡り日本に留まり、コンサドーレ札幌、川崎フロンターレのコーチを歴任した。2009年再びジョアン・カルロスの下で働くためにブラジルへ帰国するが、2010年よりアルビレックス新潟のコーチ就任のため三度来日した。
2010年5月1日、体調不良を訴え新潟市内の病院に入院[2]。12日に急性白血病との診断結果が発表され、6月にブラジルへ帰国した[3]。少なくとも半年の加療が必要であったため[4]、ブラジルへ帰国して治療を続けていたが、2012年5月6日、死去[5][6]。45歳没。
指導歴
- 1998年-1993年
フラメンゴ
- 1993年-1994年
アメリカFC
- 1994年
パラグアイ代表[7]
- 1995年
リオ・ブランコEC
- 1995年
CAブラガンチーノ
- 1996年-1998年
鹿島アントラーズ
- 1998年
アトレチコ・パラナエンセ
- 1999年
AEアラサトゥバ
- 1999年
ブラジルユース代表[7]
- 1999年
ウニオン・サンジョアンEC
- 1999年-2001年
名古屋グランパスエイト
- 2003年
コンサドーレ札幌
- 2004年-2008年
川崎フロンターレ
- 2009年
ECチギレス・ド・ブラジル
- 2010年
アルビレックス新潟
- 肩書は全てフィジカルコーチ
脚注
- ^ a b c F-スポット ピックアッププレイヤー : 2005/Vol.11 - 川崎フロンターレ 2010年8月24日閲覧
- ^ マルセロフィジカルコーチの病状検査結果について - アルビレックス新潟 2010年5月12日
- ^ マルセロフィジカルコーチ 退院、ブラジル帰国のお知らせ - アルビレックス新潟 2010年6月5日
- ^ 新潟マルセロ・コーチが白血病で加療中 - 日刊スポーツ 2010年5月12日
- ^ Nota de falecimento Flamengo Office site 2012-5-7
- ^ マルセーロ・ポンテス ジーコ 日本語版オフィシャルサイト 2012年5月8日
- ^ a b トップチームフィジカルコーチにマルセロ 氏 就任のお知らせ - アルビレックス新潟 2010年1月7日
外部リンク
- 2008年度プロフィール - 川崎フロンターレ
固有名詞の分類
- マルセロ・ポンテス・ロペスのページへのリンク