マルクス・バエビウス・タンピルスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マルクス・バエビウス・タンピルスの意味・解説 

マルクス・バエビウス・タンピルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 18:12 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

マルクス・バエビウス・タンピルス
M. Baebius Q. f. Cn. n. Tamphilus
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 バエビウス氏族
官職 法務官紀元前192年
執政官紀元前181年
前執政官紀元前180年
指揮した戦争 ローマ・シリア戦争
ローマ・ガリア戦争
テンプレートを表示

マルクス・バエビウス・タンピルス(Marcus Baebius Tamphylus、生没年不明)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前181年執政官(コンスル)を務めた。

出自

バエビウス氏族はプレブス(平民)の家系で、紀元前3世紀の終わりに台頭してきた氏族である[1]。カピトリヌスのファスティによると、タンピルスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父はグナエウスである[2]。父クィントゥスは紀元前219年、即ち第二次ポエニ戦争開戦の前年に大使としてサグントゥムに派遣され、ハンニバルに撤退を要求した。ハンニバルはこれを拒否しサグントゥムを陥落させたため、ローマはカルタゴに宣戦布告した[3]

タンピルスの兄は紀元前182年の執政官グナエウス・バエビウス・タンピルスである[4]

経歴

タンピルス政治歴は紀元前194年に植民都市シプンテ建設のための三人委員会に得ればれたことから始まる[5][6][7]。また、同じ年に護民官に選出されたと伝えられている[7][8]

紀元前192年、タンピルスはプラエトル(法務官)に就任した[9]。最初彼はヒスパニア・キテリオルに派遣される予定となっていたが、セレウコス朝アンティオコス3世との戦争の脅威が迫ったため、元老院はタンピルスをブルティウムに贈り、この地域を守るために彼に2個ローマ軍団と15500人のアウクシリア(同盟軍兵士)を与えた。その後タンピルスはローマからの命令に従って、タレントゥムブリンディシウムに軍を移動させ、最終的には海を渡ってエペイロスへ転進してアポロニアで冬営した[7]。タンピルのインペリウム(軍事指揮権)は翌年にも延長された[10]

春になって、タンピルス率いるローマ軍は、味方についたマケドニアピリッポス5世と共に、テッサリアに侵攻し、ローマ・マケドニア連合軍はアンティオコスを支持する多くの都市を奪取した[11]。その後執政官マニウス・アキリウス・グラブリオバルカン半島に到着し、軍の最高指揮権を握った。タンピルスはペリナエウム包囲戦に参加し、軍の一部を指揮した[12]

紀元前185年タンピルスは元老院がギリシアに派遣した3人の大使の1人に選ばれた。使節派遣の目的は、ギリシア都市からのピリッポス5世に対する苦情を検討するものであった[13]。大使たちはテンペ谷で開かれた会議でこの件を検討しピリッポスが近年占領した全ての都市から軍隊を撤退させなければならないと決定した。その後、大使たちはテッサロニキに行き、同じようにピリッポスが占領していたトラキアの二つの都市、アエヌスとマロネアの問題を検討した。ペルガモンエウメネス2世はこの2都市の領有権を主張したが、大使達は明確な判断は示さなかった。紀元前188年アパメイアの和約でローマから派遣された10人委員がそのように決定していたのであれば、両都市はペルガモンに引き渡すべきである。もしそのような取り決めがなかった場合は、征服したピリッポスのものである。実際には問題は明確ではないが、何れにせよマケドニア軍は撤退すべきである。ティトゥス・リウィウスによれば、この使節団の決定はピリッポスを侮辱するものであり、その結果第三次マケドニア戦争は避けられないものとなってしまった[14][15]

紀元前181年、タンピルスは執政官に就任する。同僚のパトリキ(貴族)執政官はプブリウス・コルネリウス・ケテグスであった[16]。元老院の決定により、両執政官は共和政ローマで初めて選挙の収賄罪に関する法律(バエビウス法)を民会に提出した[17]。両執政官はリグリアを担当することとなり、翌年にもプロコンスル(前執政官)としてインペリウム(軍事指揮権)を維持した。ケテグスとタンピルスは現地のアプアン属を服属させ、彼らをサムニウムに移住させた。これ以降、リグリアはリグリア・コルネリウスおよびリグリア・バエビウスと呼ばれるようになる。ローマに戻ると、両執政官は凱旋式を挙行した(但し、凱旋式のファスティのこの部分は欠落)。軍事的勝利ではない理由で凱旋式を実施したのは、彼らが初めてであった[15]

脚注

  1. ^ Baebius, 1896 , s. 2728.
  2. ^ カピトリヌスのファスティ
  3. ^ Baebius 45, 1896 , s. 2733.
  4. ^ Baebius 45, 1896 , s. 2734.
  5. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXIV, 45, 3.
  6. ^ Broughton, 1951 , p. 345.
  7. ^ a b c Baebius 44, 1896, s. 2732.
  8. ^ Broughton, 1951 , p. 344.
  9. ^ Broughton, 1951 , p. 350.
  10. ^ Broughton, 1951 , p. 353.
  11. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXVI, 13.
  12. ^ Baebius 44, 1896 , s. 2732-2733.
  13. ^ Broughton, 1951 , p. 373.
  14. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXIX, 24-29
  15. ^ a b Baebius 44, 1896, s. 2733.
  16. ^ Broughton, 1951 , p. 383.
  17. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XL, 19, 11.

参考資料

古代の資料

研究書

  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. Baebius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1896. - Bd. II, 2. - S. 2728.
  • Münzer F. Baebius 44 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1896. - Bd. II, 2. - S. 2732-2733.
  • Münzer F. Baebius 45 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1896. - Bd. II, 2. - S. 2733-2734.

関連項目

公職
先代:
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
グナエウス・バエビウス・タンピルス
執政官
同僚:プブリウス・コルネリウス・ケテグス
紀元前181年
次代:
アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクス
ガイウス・カルプルニウス・ピソ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  マルクス・バエビウス・タンピルスのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マルクス・バエビウス・タンピルス」の関連用語

マルクス・バエビウス・タンピルスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マルクス・バエビウス・タンピルスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマルクス・バエビウス・タンピルス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS