マリー・フォン・ハノーファー_(1849-1904)とは? わかりやすく解説

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マリー・フォン・ハノーファー (1849-1904)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/09 07:54 UTC 版)

マリー
Marie
ハノーファー家
マリー・フォン・ハノーファー

全名
出生 (1849-12-02) 1849年12月2日
ハノーファー王国ハノーファー
死去 (1904-06-04) 1904年6月4日(54歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国グムンデン
埋葬 オーストリア=ハンガリー帝国グムンデン、クンバーラント城
父親 ゲオルク5世
母親 マリー
宗教 キリスト教ルーテル教会
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マリー・プリンツェシン・フォン・ハノーファー・ウント・クンバーラントドイツ語: Marie Prinzessin von Hannover und Cumberland, 1849年12月2日 - 1904年6月4日)は、ハノーファー王女およびグレートブリテン及びアイルランド王女。

生涯

ハノーファー王太子ゲオルク(後のハノーファー王ゲオルク5世)とその妃であったザクセン=アルテンブルク公女マリーヨーゼフの長女)の間の次女(第3子)として生まれた。1866年に父が王位を追われた後も母と一緒にマリエンブルク城英語版に留まっていたが、翌1867年7月にオーストリア=ハンガリーに亡命[1]し、グムンデンクンバーラント城ドイツ語版に落ち着いた。又従弟にあたるコノート公アーサーヴィクトリア女王の三男)との縁談もあった[2]が、実現はしなかった。そのまま独身を通し、母マリー王妃と一緒に暮らした。1904年に母に先立って54歳で亡くなり、クンバーラント城内の霊廟に葬られた。

脚注

  1. ^ "Queen Marie of Hanover", The Times (24 July 1867): 11.
  2. ^ "Miss Mary Baring's Marriage", The New York Times (30 September 1887): 5.
母マリー王妃(右)と(1904年)



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