マウレガートとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マウレガートの意味・解説 

マウレガート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 14:48 UTC 版)

マウレガート
Mauregato
アストゥリアス国王
在位 783年 - 789年

死去 789年
アストゥリアス王国、プラビア
埋葬 アストゥリアス王国、プラビア、サンティアネス、サン・フアン教会
配偶者 クレウサ?
子女 エルメネギルド
家名 アストゥリアス家
王朝 ペレス朝
父親 アルフォンソ1世
母親 シサルダ
テンプレートを表示

マウレガート (Mauregato de Asturias、? - 789年)は、アストゥリアス王(在位:783年 - 789年)。アルフォンソ1世と、奴隷のシサルダとの間に庶子として生まれた。

生涯

子供のないシロ王が死ぬと、王位継承権を持つ王妃アドシンダはフルエーラ1世の子であるアルフォンソ2世を後継に指名した。しかし、フルエーラ1世の行いを忘れていなかったアストゥリアス貴族の一部がマウレガートを王に選んだ。

マウレガートは強力な反対派を組織し、新王アルフォンソはアラバに撤退せざるを得なかった。のち、マウレガートは自らが王であることを宣言し、王国の権力を掌握した。

マウレガートは『百人の乙女の貢納』(Tributo de las cien doncellas)と呼ばれる出来事の原因をつくった。言い伝えによると、コルドバアミールアブド・アッラフマーン1世が和平に応じるのと引き換えに、王はキリスト教徒の乙女100人を貢物としたという。

マウレガートの治世で最も知られるのは、異端の教義とされた養子的キリスト論者によって引き起こされた論争だった。これにカール大帝オビエド司教エリパンド、リエバナのベアトが介入した。

マウレガートの死後、貴族らはベルムード1世を王に選出した。マウレガートはプラビアのサン・フアン教会に埋葬された。

一説には、マウレガートはクレウサという女性と結婚し、エルメネヒルドという子をもうけたとされるが、多くの歴史家はこれを疑問視している[1][2]

脚注

  1. ^ Boletín del Instituto de Estudios Asturianos. Instituto de Estudios Asturianos. Números 125-126. Página 83.
  2. ^ Del Arco y Garay, Ricardo (1954). «X». En Instituto Jerónimo Zurita. Consejo Superior de Investigaciones Científicas. Sepulcros de la Casa Real de Castilla. Madrid. pp. 134.


このページでは「ウィキペディア」からマウレガートを検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からマウレガートを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からマウレガートを検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マウレガート」の関連用語

マウレガートのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マウレガートのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマウレガート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS