マイケル・オビクとは? わかりやすく解説

マイケル・オビク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/16 16:13 UTC 版)

マイケル・オビク
名前
本名 マイケル・エディリン・オビク
Michael Edirin Obiku
愛称 マイク
ラテン文字 Michael Obiku
基本情報
国籍 ナイジェリア
生年月日 (1968-09-24) 1968年9月24日(56歳)
出身地 ワリ
身長 184cm
体重 82kg
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1987 フラッシュ・フラミンゴズ 29 (13)
1988 イウアンヤンウ・ナショナレ 5 (4)
1988-1989 CSマリティモ
1989-1992 アノルソシス・ファマグスタ 69 (33)
1992-1996 フェイエノールト 71 (23)
1994 ヘルシンボリIF 14 (9)
1996-1997 RCDマジョルカ 26 (14)
1997-1998 アビスパ福岡 25 (9)
1998-1999 AZアルクマール 13 (2)
1999-2000 アノルソシス・ファマグスタ 21 (14)
2000-2001 APOELニコシア 0 (0)
通算 273 (121)
代表歴
1986  ナイジェリアU-20
1888  ナイジェリアU-23 2 (0)
1988-1993 ナイジェリア 4 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マイケル・エディリン・オビクMichael Edirin Obiku, 1968年9月24日-)は、ナイジェリアワリ出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはFWスパルタ・ロッテルダムのユースチームでアシスタントコーチをしている。

経歴

初期

母国ナイジェリアのフラッシュ・フラミンゴズ (現エザンFC英語版)でキャリアを始めた。1986年、プロ1年目の18歳の時に6ゴールを決めると、翌シーズンは7ゴールを記録。イウアンヤンウ・ナショナレ (現ハートランドFC英語版)へステップアップしていき、ここでは半年間で4ゴールを挙げた。

フェイエノールト

1988年夏にポルトガルCSマリティモへ移籍するも、契約やライセンスの問題から1988-99シーズンを通して試合に出場することが出来ず、プレシーズンのみに終わった。このような状況から、1989年夏の移籍市場でキプロスアノルソシス・ファマグスタへ加入。1989-90シーズン・6ゴール, 1990-91シーズン・11ゴールと得点を重ね、最後のシーズンとなった1991-92シーズンは、16ゴールを記録しチームは2位という成績でシーズンを終えた。その活躍から、フェイエノールトヨリエン・ファン・デン・ヘリク英語版会長自らが獲得に乗り出した[1]。1992年夏にフェイエノールトへ移籍した。

フェイエノールトでの最初のシーズンは、ヴィレム・ファン・ハネヘム監督の下でハストン・タウメント, ジョン・ファンルーンとポジション争いを繰り広げた。1992年8月12日、PSVアイントホーフェン戦でデビューをするも0-1で敗北した。スタメンとして出場することが出来なかったが、スーパーサブとして21試合出場7得点を記録、2位のPSVと勝ち点2差でエールディヴィジ優勝した。翌1993-94シーズン、チームはリーグ戦準優勝・KNVBカップ優勝するも、オビク自身は夏にヘンリク・ラーションが移籍してきたことにより序列が4番目に後退、16試合3ゴールを記録した。

1994年夏、ラーションとの契約上の関係からヘルシンボリIFへレンタルで加入した。アルスヴェンスカンでは、14節に3-2で勝利したVästra Frölunda IF戦でのゴールを含め合計9ゴールを記録、さらにカップ戦準決勝進出に貢献した。

1995年冬にレンタルから復帰すると、1995年3月8日のKNVBカップ準決勝・永遠のライバルアヤックス・アムステルダムとのデ・クラシケルでゴールデンゴールを決め勝利した[2]。このシーズンのアヤックスはスーパーカップを皮切りにエールディヴィジ、そしてUEFAチャンピオンズリーグと優勝し、トレブル (サッカー)達成まであと一歩だったが、オビクの活躍に阻まれシーズン終了した。決勝のFCフォレンダム戦は、後半に途中出場してから11分後の82分に決勝ゴールを決め、チームはここ5年で4回目となるカップ戦優勝をした[3]。一方、リーグ戦では4位に終わり、オビクは6ゴールを記録した。また、UEFAカップウィナーズカップではレアル・サラゴサとの準々決勝に1試合出場した。翌1995-96シーズン、主にサブとして出場したオビクは、自身のキャリアで3度目となる通算7ゴールを記録し、そして再びKNVBカップのタイトルを獲得した。1996-97シーズン、序盤に3試合出場するもアリー・ハーン監督が指揮するチームに居場所を見つけることが出来ず、クラブを去っていった。フェイエノールトでは、カップ戦を1992, 1994, 1995と3回、リーグ戦を1992-93シーズンに1回優勝した。

その後

1996-97シーズン、セグンダ・ディビシオンで戦うRCDマヨルカに加入すると13ゴールを決め、コンスタンティン・ガルカと共にチーム得点王になった[4]。チームは3位で終わったため、ラージョ・バジェカーノとの昇降格プレーオフにまわり勝利した。オビクは、この2試合共にプレーし、リーガ・エスパニョーラ昇格の立役者の1人となった。

1997年7月にJリーグアビスパ福岡に入団。身体能力を始めとする個人能力の高さを披露するも、フィニッシュの精度に難が残った。

1998年夏にオランダへ戻るとAZアルクマールと契約、13試合2ゴールを記録する。チームは9位でフィニッシュしたが、次のシーズン契約延長せず1年で退団した。1999-2000シーズンにキプロスへ舞い戻り、以前成功を収めたアノルソシス・ファマグスタに再び加入した。この年はキプロス・ファーストディビジョンで13ゴールを記録し、チームは4連覇目を達成した。2001年APOELニコシアで引退した。

代表

オビクはナイジェリア代表として、アフリカネイションズカップ1988・1次リーグのカメルーン代表戦に出場した[5]。決勝戦で再びカメルーンと対戦したが、オビク自身は出場することなく、0-1で敗退し優勝を逃した[6]1990 FIFAワールドカップ・アフリカ予選に2試合出場[7]ソウルオリンピックでは2試合に出場[8]するもノーゴールに終わり、また、出場時間はわずか12分だった。1989年にポール・ハミルトン英語版が監督に就任するとレギュラーだったが、ハミルトンが解任されると長期間呼ばれなくなった。1993年にクレメンス・ウェステルホフ英語版率いるチームに復帰し、4月11日のアフリカネイションズカップ1994予選エチオピア代表戦に出場するも0-1で敗北した。サムソン・シアシア英語版, ラシディ・イエキニ, ダニエル・アモカチと多くのストライカーがチームにいたため、プレーする機会があまりなかった。

指導者

引退から数年後、オランダに定住しコーチになった。フェイエノールトのユースチームでトレーニングを受け、VVアレクサンドリア66オランダ語版というアマチュアチームのコーチを務めた。2006年末にHSVホーク英語版を指導し成功を収めた。2007年からスパルタ・ロッテルダムのユースチームでアシスタントコーチをしている。

エピソード

フェイエノールト時代にゴールを決めると、ユニフォームを地面に投げ捨て、その周りで踊るパフォーマンスをしていた。また、ヴィレムII戦で、ピッチを囲む有刺鉄線のフェンスを掴んでしまい手を負傷した。出血した手を治療してプレーを続けた[要出典]

個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
1997 福岡 34 J 15 7 0 0 3 1 18 8
1998 9 10 2 4 2 0 0 14 4
通算 日本 J 25 9 4 2 3 1 32 12
総通算 25 9 4 2 3 1 32 12

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 9試合 1得点(1987年-1993年)[9]


ナイジェリア代表 国際Aマッチ
出場 得点
1987 1 0
1988 3 0
1989 3 1
1990 1 0
1991 0 0
1992 0 0
1993 1 0
通算 9 1

脚注

関連項目

外部リンク





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