ボロトベク・シェルニヤゾフとは? わかりやすく解説

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ボロトベク・シェルニヤゾフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 08:23 UTC 版)

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ボロト・シェルロシア語: Болот Шер, ラテン文字転写: Bolot Sher1959年5月1日 - 2020年6月21日)は、キルギス共和国の政治家。暫定政権の元内務相。「アタ・メケン」党副党首。旧姓はボロトベク・シェルニヤゾフ(シェル=ニヤズ)。

経歴

タラス州マナススキー地区プーシュキノ村出身。キルギス人。1976年8月~1977年7月、モスクワのPTU-78で学ぶ。学校卒業後、モスストロイのSU-67で働く。

1977年~1979年、ソビエト軍に勤務。1979年~1982年、モスクワの機械製造工場「サリュート」のプレス工、レーニン名称工場の組立工として働く。

1988年、ソ連内務省フルンゼ民警特殊中等学校を卒業し、1991年までキルギス共和国の内務機関に勤務する。

1991年~1998年、「シェル」社社長。1998年7月から共和国連盟「コク・ボル」総裁、2001年11月から国際連盟「コク・ボル」事務総長。1994年、タラス州マナススキー地区ウチ・コルゴン村人民代議員会議の代議員に選出。

2000年2月~2005年、ジョゴルク・ケネシュ(国会)人民代表者院代議員となり、青年問題・スポーツ・観光・社会団体及びマスコミ関係委員会の委員長を務めた。2002年、市民の憲法上の権利と自由の擁護の議会調査を率いたが、この件に関する資料が何者かによって盗まれてしまった。2005年初め、野党ブロック「アタ・ジュルト」(現在の同名党とは別)の活動家となり、ローザ・オトゥンバエヴァを支持するピケットを組織した。

2005年3月、第3期ジョゴルク・ケネシュ代議員に選出され、議会第一副トラガ(議長)に選出された。2006年2月27日、オムルベク・テケバエフ議長と共に辞任したが、新議長マラート・スルタノフの選出後、辞意を撤回し、2006年4月まで副議長職に留まった。

2006年、「アタ・メケン」党を組織し、2007年2月から同党の政治会議議員、副党首。

2010年4月5日、集会の組織のためにタラスに到着したが、民警により逮捕された。翌日、支持者の要求により釈放され、反政府集会を組織した。同日夕刻に再び逮捕されたが、蜂起者の要求により釈放された。

2010年4月8日、暫定政権の内務相代行に任命されたが、民警職員が反対集会を開き、4月19日に解任された。同年5月22日、内務相に再任。6月1日、ボロトベク・シェルニヤゾフからボロト・シェルに改姓・改名した。7月14日の「技術政府」発足に伴い内務相を退任した。

2020年6月21日に61歳で死去[1]

パーソナル

「アチャケイ」社社長。「フェルガナ」紙の情報によれば、2004年度のキルギスで最も裕福な100人の内の1人に入った。

弟のサディク・シェル・ニヤズは、「技術政府」の文化相。

出典

[脚注の使い方]


先代:
モルドムサ・コンガンチエフ
内務相代行
2010年
次代:
バクティベク・アルィムベコフ
先代:
バクティベク・アルィムベコフ
内務相
2010年
次代:
クバトベク・バイボロフ




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