ベンノ・マルティンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ベンノ・マルティンの意味・解説 

ベンノ・マルティン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/29 07:38 UTC 版)

ベンノ・フランツ・テオドール・マルティン(Benno Franz Theodor Martin, 1893年2月12日 - 1975年7月2日)は、ナチス・ドイツ親衛隊 (SS) の将軍。最終階級は親衛隊大将、警察大将及び武装親衛隊大将。

経歴

ドイツ帝国バイエルン王国カイザースラウテルンにて法曹の息子として出生。法学を学んだのち、1914年5月に陸軍に入隊。第一次世界大戦中は第10バイエルン王国砲兵連隊に所属し、1915年3月に中尉に昇進した。また1914年に一級鉄十字章および二級鉄十字章を受章した[1]。1919年の4月から5月にかけてエップ義勇軍に参加し[2]、その後バイエルン州警察に入署した。1923年にエアランゲン大学で博士論文を提出して法学博士となった。1925年よりニュルンベルクフュルト警察本部所属となった[2]

1933年5月1日に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号2,714,474)。1934年4月10日に親衛隊少尉の階級で親衛隊に入隊(隊員番号187,117)し第3親衛隊連隊に所属した。1934年3月よりニュルンベルク警察本部長代理となり、後に本部長に就任[2][1]。9月9日には親衛隊中尉となり、1935年4月20日には親衛隊大尉に昇進した。1936年5月に第9親衛隊地区の幕僚となり、9月15日には親衛隊少佐に昇進した。10月からはニュルンベルクの保安警察及びSD指導者となった[1]。1937年9月12日に親衛隊大佐に昇進した。1938年11月9日には親衛隊上級大佐に昇進し、12月には親衛隊本部に配属された。1941年4月20日に親衛隊少将に昇進し、5月より国家保安本部所属となった。また5月7日より親衛隊上級地区マイン川」指導者となった。1942年1月30日に警察少将となり、4月20日に親衛隊中将及び警察中将となった。1942年12月17日に「マイン川」親衛隊及び警察高級指導者に任じられた。1944年8月1日に親衛隊大将、警察大将及び武装親衛隊大将に昇進した[3]

1945年5月に逮捕され、1949年まで拘留された。フランケンのユダヤ人を強制収容所へ抑留したことを理由に起訴されたが、1953年にニュルンベルク州裁判所により無罪となった[2]。1975年7月2日にミュンヘンで死去した。

キャリア

階級

受章歴

参考文献

脚注

  1. ^ a b c Yerger, p.36
  2. ^ a b c d エーベルレ、p.493
  3. ^ a b SS-Obergruppenführer Benno Martin

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ベンノ・マルティン」の関連用語

ベンノ・マルティンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ベンノ・マルティンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのベンノ・マルティン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS