ピレネーの進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 21:47 UTC 版)
「ジャック・フランソワ・デュゴミエ」の記事における「ピレネーの進軍」の解説
以後、デュゴミエは、東部ピレネー軍の司令官に任命され、アントニオ・リカード・リカーヨ指揮するスペイン軍に占領された領土奪還の命を受ける。彼はそこでまず、絶え間なくスペイン軍の襲撃を受け、成果を挙げることなく弱体化していた軍を再編成した。優れた戦略と、敵軍の最高司令官が病気により相次いで死亡するという幸運に恵まれ、スペイン軍をフランス国内から追い払うことに成功する。 デュゴミエは、1794年9月17日、5月7日から包囲を続けていたベルガーデュ砦を取り戻した。9月22日には、大胆不敵な攻撃によってコストージュ砦と軍営地を奪い、敵を敗走させて、多くの装備品や軍需物資を得た。 11月18日には、カタルーニャでブラックマウンテンの戦いに臨んだが、デュゴミエはこの戦いのさなかに、臼砲から放たれた榴弾をくらい、戦死してしまう。しかし、戦いにはフランス軍が勝利をおさめ、東部ピレネー軍はペリニョン将軍によって引き継がれた。 死後、デュゴミエの遺体はペルピニャンに葬られた。さらに彼の名はパンテオンに刻まれている。ペルピニャンには、現在彼をたたえたピラミッド状の記念碑が立てられている。
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