ヒュー・ド・ケヴェリオック (第5代チェスター伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 06:06 UTC 版)
ヒュー・ド・ケヴェリオック Hugh de Kevelioc |
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第5代チェスター伯 | |
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在位 | 1153年 - 1181年 |
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出生 | 1147年![]() |
死去 | 1181年6月30日![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | ベルトラード・ド・モンフォール |
子女 | ラヌルフ3世 マティルダ(モード) メイベル アグネス ホウィーズ |
父親 | 第4代チェスター伯ラヌルフ・ド・ジェルノン |
母親 | モード・オブ・グロスター |

第5代チェスター伯ヒュー・ド・ケヴェリオック(Hugh de Kevelioc, 5th Earl of Chester, 1147年 - 1181年6月30日)は、イングランド王ヘンリー2世の治世中にイングランド、ウェールズ、アイルランド、フランスで活躍したアングロ=ノルマン貴族である[1]。ヒュー・オブ・カヴェイリオグ(Hugh of Cyfeiliog)またはヒュー・ド・ケヴィリオック(Hugh de Kevilioc)ともいわれる。
生涯
ヒューは、第4代チェスター伯ラヌルフ2世とその妻モード(初代グロスター伯ロバートの娘)の息子として1147年に生まれた[2]。グロスター伯ロバートはイングランド王ヘンリー1世の庶子であった。後代の伝承では、ウェールズのカヴェイリオグ地方で生まれたとされている[1]。
1153年に父が亡くなると、彼は広大な領地を相続した。フランスでは、アヴランシュ、ベッサン、ヴァル・ド・ヴィールの世襲の子爵位に加え、サン=セヴェールおよびブリケサールの領地も受けた。イングランドとウェールズでは、チェスター伯位とそれに伴う爵位を授与された。これらを合わせると、1162年に成人を宣告され領地を取得した時点で、ヒューは最も重要なアングロ=ノルマン領主の一人となった。すぐにヘンリー2世の有力者集団の一員となり、1163年にはドーバーでアングロ=フランドル同盟の更新に出席し、1164年にはクラレンドン法にも加わった[1]。
しかし、ヒューは1173年に王の息子たちの反乱に加わり、ブルターニュで反乱軍を率いた。ブラバント軍を派遣し、反乱軍をドル城に撤退させた後、1174年8月、ヘンリー2世は自ら包囲網を率いるために到着した。食料が尽きたヒューとその仲間たちは、処刑や身体の切断はしないと約束された後、降伏した。様々な城に捕らえられた後、ヒューはヘンリー2世と和平を結び、1174年10月に締結されたファレーズ条約の証人の一人となり、戦闘は終結した[1]。
1177年1月のノーサンプトン会議で、ヒューの領土は回復されたが、城は回復されなかった。3月には、カスティーリャとナバラの間のヘンリー2世による仲裁に証人として出席した。そして5月のウィンザー会議において、ヘンリー2世はヒューに城を返還し、アイルランドへの派遣を命じた。ヒューがアイルランドで軍事的成功を収めた、あるいは領地を与えられたという記録は残っていない[1]。
1181年6月30日にスタッフォードシャーのリークで亡くなり、チェスターのセント・ワーバーグ修道院(現在のチェスター大聖堂)のチャプターハウス南側の父親の傍らに埋葬された。唯一の息子ラヌルフが伯位を継承した[1]。
慈善活動
ヒューは生涯を通じて、チェスターのセント・ワーバーグ修道院、スタンロウ修道院、コヴェントリーのセント・メアリー修道院、バリントン修道院、グリーンフィールド修道院、トレンサム修道院、そしてボーデスリー修道院に寄進を行った。また、両親が行ったカルク修道院、チェスターのセント・メアリー・オン・ザ・ヒル修道院、そしてノルマンディーのカーンのサン・テティエンヌ修道院に対する寄進についても追認した。
結婚と子女
1169年にエヴルー伯シモン3世・ド・モンフォールの娘ベルトラードと結婚した。シモン3世はアモーリー3世・ド・モンフォールの息子であった[1]。夫妻の間には以下の子女が生まれた。
- ラヌルフ3世(1170年 - 1232年) - 第6代チェスター伯[1]
- マティルダ(モード、1171年 - 1233年) - 1190年にハンティンドン伯デイヴィッド・オブ・スコットランドと結婚[1]
- メイベル - 第3代アランデル伯ウィリアム・ド・オービニーと結婚[1]
- アグネス - 第4代ダービー伯ウィリアム・ド・フェラーズと結婚[1]
- ホウィーズ - リンカーン女伯。ロバート2世・ド・クインシーと結婚[1]。
また、以下の庶子が知られている。
他にも私生子がいたとされており、ベアトリクスという名の娘はウィリアム・ベルワードと結婚したとされ[5][6]、名前不詳の娘は大リウェリンと結婚したと言われている[7]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m Tout, T. F.; Keefe, Thomas K. (23 September 2004). "Hugh [Hugh of Cyfeiliog], fifth earl of Chester (1147–1181)". Oxford Dictionary of National Biography (Subscription or UK public library membership required). Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/14059。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ “The chronicle: 1133-86 | British History Online”. 2025年5月31日閲覧。
- ^ Leycester, Peter, Sir, Tracts written in the controversy respecting the legitimacy of Amicia, daughter of Hugh Cyveliok, Earl of Chester, A.D. 1673-1679, volume 78.
- ^ “Introduction | British History Online”. 2025年5月31日閲覧。
- ^ Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. pp. 784. ISBN 0-9711966-2-1
- ^ Ormerod's History of Cheshire, Vol. 1, p. 47, Vol. 2, p. 333
- ^ Lloyd, John E. A History of Wales from the Earliest Times to the Edwardian Conquest Longmans, Green & Co. (1911) pp. 616-7
参考文献
- Annales Cestrienses; or, Chronicle of the Abbey of S. Werburg, at Chester, Lancashire and Cheshire Record Society, 1879.
- Gibbs, Vicary (1910). The complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom: extant, extinct, or dormant. Volume 1 2025年5月31日閲覧。
イングランドの爵位 | ||
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チェスター伯 1153年 - 1181年 |
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