ヌールッディーンとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 06:06 UTC 版)
「イスマトゥッディーン・アーミナ」の記事における「ヌールッディーンとの結婚」の解説
1146年、ザンギー朝のイマードゥッディーン・ザンギーの死により、それまで対立してきたダマスカスのブーリー朝とアレッポのザンギー朝の間に和解の機運が生まれた。ザンギーの跡を継ぎ、アレッポを継承したザンギーの子ヌールッディーンは父の方針を転換し、ブーリー朝に歩み寄る。このことにより、ブーリー朝のウヌルとヌールッディーンの間で婚姻同盟が結ばれる運びとなる。イスマトゥッディーンは1147年にヌールッディーンに嫁ぐこととなった。イスマトゥッディーンとヌールッディーンとの間に子があったかははっきりしないが、ヌールッディーンの後継者アル=サーリフはヌールッディーンがアル=シットとの間に作った子であり、イスマトゥッディーンの子ではない。1149年、ウヌルが死去し、これを機と見たヌールッディーンは1154年にダマスカスを奪取する。これまでアレッポにいたイスマトゥッディーンは彼に伴ってダマスカスへ再び移ったと思われる。ギヨーム・ド・ティールによると1174年、ヌールッディーンが死去した際にダマスカスを攻撃すべく侵攻してきた十字軍と交渉し、これを退却させている。
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