ドメニコ・インドゥーノとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ドメニコ・インドゥーノの意味・解説 

ドメニコ・インドゥーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 00:57 UTC 版)

ドメニコ・インドゥーノ
Domenico Induno
自画像
生誕 1815年5月14日
ミラノ
死没 1878年11月5日
ミラノ
テンプレートを表示

ドメニコ・インドゥーノ(Domenico Induno、1815年5月14日1878年11月5日)はイタリアの画家。おもに風俗画を描いた。

略歴

ミラノで生まれた。父親はミラノの宮廷の料理人、執事であった[1]。弟のジェローラモ・インドゥーノ(Gerolamo Induno: 1825-1890)も画家になった。幼い頃から金細工師、彫金師の徒弟に入るが、主人に絵の才能を認められて、ミラノのブレラ美術アカデミーで絵を学ぶことを勧められた。1831年に入学が認められ、美術アカデミーでは彫刻家のポンペオ・マルケージや画家のルイージ・サバテッリフランチェスコ・アイエツに学んだ。アイエツから最も強い影響を受けた。[2]

はじめ、聖書の物語の場面を描くのを好み、当時ミラノを支配していたオーストリア皇帝フェルディナント1世の代理人からウィーンの皇帝のギャラリーに飾るための歴史画の注文を受けた[1]

その後、歴史画から風俗画に徐々に移り、師のアイエツの助けで、有力者をパトロンにすることができた。弟とミラノに工房を開き、1843年に工房で働くアンジェロ・トレッチーニ(Angelo Trezzini: 1827-1904)の姉と結婚した。

1848年の「ミラノの5日間」と呼ばれるオーストリア支配に対する反乱に参加したため、反乱が失敗した後、家族と弟とスイスのティチーノに亡命した[1]。1850年に安全な情勢になった後、イタリアに戻り、フィレンツェに住んだ。

1854年にブレラ美術アカデミーの "Socio d'Arte"に選ばれ、1855年のパリ万国博覧会に出展した。1860年に展覧会の審査員を務めた。同年、イタリア統一戦争のヴィッラフランカの休戦に関する作品を描き、その内の一点はイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に買い上げられた[2]

1863年にブレラ美術アカデミーの校長に任命された[1]。1873年のウィーン万国博覧会の展覧会に出展して金メダルを受賞した。1878年のパリ万国博覧会にも参加したがその年の末亡くなった[2]

作品

参考文献

  1. ^ a b c d Biography and appreciation from the Dizionario Biografico (2004) @ Treccani.
  2. ^ a b c Brief biography from L'Unificazione (2011) @ Treccani.

関連文献

⁂ Giuliano Matteucci (Ed.), Domenico e Gerolamo Induno: La storia e la cronoca scritte con il pennello, Fondazione Cassa di risparmio di Tortona, 2006 ISBN 978-88-422-1460-1

  • Silvestra Bietoletti, Domenico Induno, Vol.10 of "Mensili d'arte", Edizioni dei Soncino, 1992
  • Fernando Mazzocca (Ed.), Immagini di Arte Italiana - Domenico Induno, L'italica, 1995



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ドメニコ・インドゥーノのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドメニコ・インドゥーノ」の関連用語

1
16% |||||


3
10% |||||

ドメニコ・インドゥーノのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドメニコ・インドゥーノのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドメニコ・インドゥーノ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS