ドミンゴス・セケイラとは? わかりやすく解説

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ドミンゴス・セケイラ

(ドミンゴス・セルグエイラ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 00:03 UTC 版)

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ドミンゴス・セケイラ
Domingos Sequeira
自画像
生誕 1768年3月10日
ポルトガル、リスボン
死没 1837年3月8日
イタリア、ローマ

ドミンゴス・セケイラことドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラ(Domingos António de Sequeira、 1768年3月10日1837年3月8日)はポルトガルの画家である。ジョアン6世宮廷画家を務めた。

略歴

リスボンの貧しい家に生まれた。家族の姓はEspírito Santoであったのを、1782年から、より高貴な印象をあたえるために de Sequeiraと名乗って活動をするようになった。リスボンの美術学校で絵を学んだ後、1788年にローマに移り、人物画を得意とする画家、アントニオ・カヴァルッチ(Antonio Cavallucci: 1752-1795)の弟子になった。1793年にローマのアカデミア・ディ・サン・ルカに入会を認められた。1795年にリスボンに戻るが、鬱症に陥り、3年間修道院で過ごすことになった。1802年に王太子ジョアン6世の宮廷画家に任命され、リスボンのアジュダ宮殿の美術品を監督し、マリア・フランシスカ・ベネディタ・デ・ブラガンサといった王族の女性に絵を教え、1806年に海軍学校(Academia de Marinha)の教授もした。ナポレオン戦争中の1808年にポルトガル王室はブラジルに遷都し、1821年に王室はリスボンに復帰するが、共和的な思想に共感を抱いていたドミンゴス・セケイラは、1823年に追放されて、パリに移らなければならなかった。1826年にはローマに移るが、1832年には重病で絵を描けなくなり、1837年にローマで没した。

肖像画や宗教画を描いた。

作品

参考文献

  • Maria Alice Mourisca Beaumont: Domingos Antonio de Sequeira-Desenhos. Museu Nacional de Arte Antiga, Lissabon 1975.
  • Alexandra Curvelo, Petra Kruse (изд.): Museu Nacional de Arte Antiga, Lissabon.. Ausstellungskatalog. Bonn 1999, Dictionary of National Biography. — L.: Smith, Elder & Co..



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