トマス・チャムリー (初代ディラミア男爵)とは? わかりやすく解説

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トマス・チャムリー (初代ディラミア男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 06:22 UTC 版)

初代ディラミア男爵、ヘンリー・カルヴァート(Henry Calvert)画。

初代ディラミア男爵トマス・チャムリー英語: Thomas Cholmondeley, 1st Baron Delamere1767年8月9日 ベックナム – 1855年10月30日 ロンドン)は、イギリスの政治家、貴族。1796年から1812年まで庶民院議員を務め、1821年戴冠式記念叙勲英語版で男爵に叙された[1]

生涯

庶民院議員トマス・チャムリー(1726年6月24日 – 1779年6月2日)と妻ドロシー(Dorothy、旧姓クーパー(Cowper)、1786年5月25日没、エドマンド・クーパーの娘)の長男として[2]、1767年8月9日にベックナムで生まれた[1]。1779年に父が死去すると、その遺産を継承した[3]。1781年にミドル・テンプルに入学[3]、1785年10月6日にケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した[4]

1794年にエンサイン英語版(歩兵少尉)としてイギリス陸軍歩兵第90連隊英語版に入隊[3]、同年9月30日にグロスター公ウィリアムの歩兵連隊の中尉に[5]、10月11日に大尉に[6]、11月4日に少佐に昇進した[7]。同年に中佐への名誉進級辞令英語版を受けたが、1798年に一旦半給になった[3]。1799年8月13日、歩兵第4連隊英語版に転じた[8]。同年のオランダ遠征英語版に参戦したが、10月6日のアルクマールの戦い英語版で負傷して捕虜にされた(のちに釈放[3])。1803年11月1日、Delamere Forest Rifleman連隊の指揮官に任命された[9]

1792年から1793年までチェシャー州長官英語版を務めた[1][10]1796年イギリス総選挙において、チェシャー選挙区英語版の与党議員第5代準男爵サー・ロバート・ソールズベリー・コットン英語版が突如引退を発表すると、チャムリーはその後任に名乗りを上げて立候補、当選を果たした[11]。同時代の噂によれば、シティ・オブ・チェスター選挙区英語版の有力者である初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナーはチャムリーがチェスターの選挙戦を攪乱しないよう、チェシャーでチャムリーを支持したという[11]。その後、チャムリーは1802年、1806年、1807年の総選挙で再選した[11]。チャムリーの選挙活動中の演説は親族から賞賛されたが、庶民院での演説は少なく、登院自体がまばらだった[3]。投票記録では概ね小ピットを支持したとされたが、その後の挙国人材内閣英語版(1806年 – 1807年)、第2次ポートランド公爵内閣(1807年 – 1809年)期における投票記録は全くなかった[3]。パーシヴァル内閣期(1809年 – 1812年)においてはワルヘレン遠征英語版をめぐる採決で内閣を支持、カトリック解放と革税法案(leather tax bill)には反対票を投じた[3]

1812年イギリス総選挙では登院のまばらさが問題になった[3]。大方の予想では選挙戦になっても勝てるとされたが、妻や家族から「本物の喜びをもたらさない事柄のために」(that which gives him no real pleasure)家計の破滅を招かないよう説得された[3][11]。チャムリーは叙爵をもって庶民院議員としての経歴を終わらせようとしたが、申請が却下され、結局何もないまま議員を退任した[3][11]

1821年戴冠式記念叙勲英語版において、1821年7月17日に連合王国貴族であるチェシャーにおけるヴェイル・ロイヤルのディラミア男爵に叙された[1][12]。子孫の第5代ディラミア男爵ヒュー・チャムリー英語版はこの叙爵に辛辣な評価を下しており、(初代男爵は)「爵位があればすごそうと思うばかだった。彼は5,000ポンドを支払って、安い買い物をしたなと考えたが、唯一の問題は平価が1,200ポンドであることだった」(He was an idiot who decided it would be impressive to have a peerage. He thought he had a bargain when he paid £5,000 for it. The only problem was that the going rate was £1,200)と述べた[13]

貴族院では最後まで1832年の第1回選挙法改正に反対して、チェシャーからの反対請願を提出したほか[14]、トーリー党貴族の大半が投票しなかった法案の第三読会(1832年6月4日)においても反対票を投じた[1]。その後、1845年に穀物法廃止に反対票を投じたが、ロバート・ピールに追随して態度を変え、1846年に穀物法廃止に賛成票を投じた[1]

長い闘病生活を経て、1855年10月30日にハイド・パーク近くのヘレフォード・ストリート(Hereford Street)で死去した[1]。息子ヒュー英語版が爵位を継承した[1]

家族

1810年12月17日、ヘンリエッタ・エリザベス・ウィリアムズ=ウィン(Henrietta Elizabeth Williams-Wynn、1786年2月6日 – 1852年8月18日、第4代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン英語版と妻シャーロット英語版の間の娘)と結婚[1]、4男1女をもうけた[2]

  • ヒュー英語版(1811年10月3日 – 1887年8月1日) - 第2代ディラミア男爵[1]
  • トマス・グレンヴィル(Thomas Grenville、1818年8月4日 – 1883年2月9日) - 陸軍軍人。1850年8月8日、キャサリン・ルーシー・サイクス(Katherine Lucy Sykes、1921年没[15]第4代準男爵サー・タットン・サイクス英語版の娘)と結婚、子供あり[2]
  • ヘンリー・ピット英語版(1820年6月15日 – 1905年4月14日) - 1848年5月4日、メアリー・リー(Mary Leigh、1906年8月24日没、初代リー男爵シャンドス・リー英語版の娘)と結婚、子供9人あり[2]
  • ヘンリエッタ・シャーロット(1874年8月13日没) - 1857年7月21日、第11代バーナーズ男爵ヘンリー・ウィリアム・ウィルソン(1871年6月27日没)と結婚[2]
  • チャールズ・ワトキン・ネヴィル(Charles Watkin Neville、1826年5月27日 – 1844年3月18日[2]

結婚まではギャンブル好きだったが、結婚を機にギャンブルのクラブから脱退、借金も返済したという[3]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 80.
  2. ^ a b c d e f Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 605–606.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l Fisher, David R. (1986). “CHOLMONDELEY, Thomas (1767-1855), of Vale Royal, Cheshire.”. In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月28日閲覧.
  4. ^ “Cholmondeley, Thomas. (CHLY785T)”. A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ “No. 13708”. The London Gazette (英語). 27 September 1794. p. 986.
  6. ^ “No. 13711”. The London Gazette (英語). 7 October 1794. p. 1020.
  7. ^ “No. 13719”. The London Gazette (英語). 1 November 1794. p. 1088.
  8. ^ “No. 15167”. The London Gazette (英語). 10 August 1799. p. 797.
  9. ^ “No. 15637”. The London Gazette (英語). 29 October 1803. p. 1496.
  10. ^ “No. 13385”. The London Gazette (英語). 31 January 1792. p. 77.
  11. ^ a b c d e Fisher, David R. (1986). “Cheshire”. In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月28日閲覧.
  12. ^ “No. 17724”. The London Gazette (英語). 14 July 1821. pp. 1461–1462.
  13. ^ Wright, Rupert (11 April 1998). “The Kennedys of Kenya”. The Spectator (英語): 14. 2021年11月28日閲覧.
  14. ^ Escott, Margaret (2009). “Cheshire”. In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月28日閲覧.
  15. ^ Debrett's Peerage and Titles of Courtesy (英語). Dean & Son. 1933. p. 295.
  16. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1902). The Complete Baronetage (1611–1625) (PDF) (英語). Vol. 1. Exeter: William Pollard & Co. p. 63.

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・クルー英語版
サー・ロバート・ソールズベリー・コットン準男爵英語版
庶民院議員(チェシャー選挙区英語版選出)
1796年 – 1800年
同職:ジョン・クルー英語版 1796年 – 1800年
次代
連合王国議会
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
グレートブリテン議会
庶民院議員(チェシャー選挙区英語版選出)
1801年 – 1812年
同職:ジョン・クルー英語版 1801年 – 1802年
ウィリアム・エジャートン英語版 1802年 – 1806年
デイヴィス・デイヴェンポート 1806年 – 1812年
次代
デイヴィス・デイヴェンポート
ウィルブラハム・エジャートン英語版
イギリスの爵位
爵位創設 ディラミア男爵
1821年 – 1855年
次代
ヒュー・チャムリー英語版



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