ティムール・タシュとは? わかりやすく解説

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ティムール・タシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/12 17:14 UTC 版)

ティムール・タシュペルシア語:Timur-Tash, Tīmūr Tāsh, تيمور تاش)(? - 1328年)は、イルハン朝の軍人。スルドス部族出身の有力者チョバンの次男[1]シャイフ・ハサンの父。

生涯

生まれ

スルドス部族のチョバンの次男として生まれる[1]

ルームの長官となる

1317年4月、アブー・サイードが第9代のイルハンに即位すると、オルジェイトゥ・ハンの遺言に従ってアミール・チョバンをスルターン代理官に指名し、二人のワズィール[注釈 1]の地位を追認、ルームの長官をチョバンの子ティムール・タシュに、ディヤール・バクルの長官をアミール・イリンジンに、アルメニアの長官をスナタイに、ホラーサーンの長官をアミール・エセン・クトルグに任命した[2]

ティムール・タシュの反乱

1322年、チョバンの子でルームの長官を任されていたティムール・タシュが反旗を翻し、自らをハン、マフディーと名乗り、マムルーク朝に応援を要請した[3]。チョバンは仰天し、このことをアブー・サイードに報告すると、自ら息子を討伐することを願い出た[3]。チョバンがルームに到着すると、ティムール・タシュの配下は彼を捕縛し、チョバンに引き渡した[3]。チョバンは息子をアブー・サイードのもとへ連行すると、アブー・サイードは父チョバンの功績に免じて彼を赦し、しばらくして後、ティムール・タシュを復職させた[3]

チョバンの失脚を知る

ティムール・タシュはモンゴルの領土をはじめて地中海沿岸まで拡大させ、反乱を起こすギリシア人やテュルク人と代わる代わる戦い、征服事業を成し遂げた[1]。フダーヴァンディガールのいた地方を攻撃しに行ったとき、弟ディマシク・ホージャの破滅のことを知った[1]1327年8月、自分の家族と輜重を留めてエグリドル市を出発し、敵国へ侵入した[1]。将軍エリタイの指揮する5千人の一部隊はカラ・ヒサルを包囲し、ティムール・タシュはこの地方の奥深く進軍した[1]。そうこうしている間にディヤールバクルから飛脚が来て、ディマシク・ホージャの死を知った[1]。この飛脚はエリタイのもとへ送られ、エリタイはティムール・タシュに合流してこの知らせを伝えるために自分の部隊とともに出発した[4]。エリタイはティムール・タシュがブグルル城下にいるのを見つけた[4]。ティムール・タシュは受けた報告を秘密にし、3日ののち、陣営を撤退し、10月13日にエグリドルに到着した[4]。この地でティムール・タシュはその軍を解雇し、わずかに5千人を残し、11月1日にカイサリヤに到着した[4]。彼はこの地に50日間とどまり、チョバンに関する知らせを待った[4]。しかし、イルハン朝においては諸道は警備され、人々は通行することができず、様々な噂が流れていた[4]。ティムール・タシュはスィヴァースへ出発した[4]。スィヴァースから7ファルサンの地点に位置するニグドイ村で彼は宿泊したが、そこへ宮廷へ赴いていた執事のティムール・ブカからチョバン逃亡の知らせを帯びた飛脚が到着し、ティムール・タシュは驚いた[4]。彼は直ちにカイサリヤに帰ったが、どうしてよいかわからなかった[4]。ティムール・タシュの将校の中には要塞に籠城し、スルターン(アブー・サイード)の怒りをやわらげ、服従と忠誠の誓いを立てて恩寵を取り戻すのが良いという意見があった[4]。ティムール・タシュは最初はこの意見に従い、自分の君主に献上するため、所有している物の中から最も貴重なものを選ぼうとしたが、自分の弟を殺し、自分の父を追及している怒った君主から特赦を期待できないとさとり、マムルーク朝のスルターン・ナースィル・ムハンマドに庇護を求めた[4]

マムルーク朝へ亡命する

そうしている間にチョバンが処刑されたという知らせが届き、ティムール・タシュはますます不安になった[5]。会議ではティムール・タシュがルームを鎮守して以来、この地は面目一新したという功績により、ティムール・タシュの職は保たれると部下たちは思ったが、ティムール・タシュ本人は「アブー・サイードを取り巻く貴族たちは父と弟の権力に堪えてきて、わが一族を恨んでいるはずだ」と言った[5]。これを聞いて弟のシャイフ・マフムードと共謀してアブー・サイードに抵抗することを提案する者もいた[5]。しかし、ティムール・タシュはこの意見に従わず、カイサリヤ市のもっとも堅牢なクー・ラーランダ堡に立てこもり、防備を固めることにした[5]。そのころ、ティムール・タシュが送った密使はナースィル・ムハンマドから大歓迎を受け、ナースィル・ムハンマドは自分の軍隊、財物、国土をティムール・タシュに自由に使わせることを約束した[6]。この返答にティムール・タシュは数日間決断できないでいたが、ついにマムルーク朝へ出発することを決意し、1327年12月22日にナースィル・ムハンマドへの宝物を携えてカイサリヤ市を出発した[6]。7日後シリア国境のラーランダ要塞をすぎ、ビヘスナ城の近くに来ると、その長官と官吏が出迎えた。ティムール・タシュはこれ以降毎日1500ディーナールの手当てを支給された[6]アレッポでも長官の出迎えがあり、ダマスクスでも大元帥の出迎えがあり、カイロまでの間寛大な待遇を受けた[6]

1328年1月21日、ティムール・タシュはカイロに到着すると、スルターン・ナースィル・ムハンマドの前で3度地上に口づけした[7]。ナースィル・ムハンマドは彼を自分の傍らに座らせ、金繍の衣一そろえを賜い、五頭のベドウィン馬と、金銀をたくさんちりばめた鞍と手綱を与えた[7]。さらに一緒に狩猟に行き、ナイル川を渡って山城にあるチャオリ邸館に宿泊した[7]。翌日もナースィル・ムハンマドから豪華な贈り物をもらい、玉座の右側、アミール・サイフッディーンの下座に座ることを許された[7]。数日後、ナースィル・ムハンマドはティムール・タシュにサンジャル指揮下のマムルーク一部隊の指揮権を与えた[8]。また、カラマン朝の王に命じてルームに残されていたティムール・タシュの家族を連れてこさせようとしたが、その家族はエジプトに行くことを拒否した[8]。この時カラマン王子はアンタッカ堡を奪ったルームの貴族ナジュムッディーン・イスハークから、ティムール・タシュが多くのイスラム教徒を殺したこと、マムルーク朝のスルターン位を奪おうとしていることを聞き、それをナースィル・ムハンマドに報告したところ、ナースィル・ムハンマドはティムール・タシュに敵意を抱き始めた[9]

処刑される

ティムール・タシュがカイロに到着してから1か月たったころ、スルタン・ナースィル・ムハンマドはアブー・サイード・ハンの使節団から国書を受け取り、友好の約束と、チョバンが権力を専断し、最高権力を奪うために反乱を企てたのを弾圧したことを知った[9]。ナースィル・ムハンマドはティムール・タシュに使節団と合わせようとしたが、彼は会おうとしなかった[10]。アブー・サイードがティムール・タシュの引き渡しを要求したため、ナースィル・ムハンマドはティムール・タシュを宮殿に召して逮捕し、牢獄に入れて鉄の鎖をかけ、その将校たちも逮捕した[11]。ナースィル・ムハンマドはイルハン朝に引き渡そうとしたが、帰国後にティムール・タシュが復讐してくることを恐れて1328年8月22日に処刑した[12]。ティムール・タシュの首はわら詰めにされ、箱の中に入れられ、ウージャーンのアブー・サイードのもとへ送られた[12]

  • シャイフ・ハサン(クチュク)…長男。
  • マリク・アシュラフ…次男。
  • マリク・アシャル…三男。
  • ミスル・マリク…四男。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g 佐口 1979, p. 333.
  2. ^ 佐口 1979, p. 268.
  3. ^ a b c d 佐口 1979, p. 309.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 佐口 1979, p. 334.
  5. ^ a b c d 佐口 1979, p. 335.
  6. ^ a b c d 佐口 1979, p. 336.
  7. ^ a b c d 佐口 1979, p. 337.
  8. ^ a b 佐口 1979, p. 338.
  9. ^ a b 佐口 1979, p. 339.
  10. ^ 佐口 1979, p. 340.
  11. ^ 佐口 1979, p. 342.
  12. ^ a b 佐口 1979, p. 343.

参考文献

  • ドーソン『モンゴル帝国史』 6、佐口透 訳注、平凡社東洋文庫 365〉、1979年。 



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