タージッディーン・アリーシャー・ギーラーニーとは? わかりやすく解説

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タージッディーン・アリーシャー・ギーラーニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 14:06 UTC 版)

タージッディーン・アリーシャー・ギーラーニーペルシア語:تاج‌الدین علی‌شاه گیلانی Tāj al-Dīn Ali Shāh Gīlānī、? - 1324年)は、14世紀イルハン朝ワズィール(宰相)。アリー・シャーとも表記[1]

生涯

ワズィールになる前

アリー・シャーはもともと宝石、布帛などの物資の商人であった[2]。アリー・シャーはその商取引を通じてアミール・フセイン・クルカーンと王侯オルジタイと知り合いになった[2]。両人はアリー・シャーをオルジェイトゥ・ハンに紹介し、彼が才知に富み、如才なく、従順で応対に巧みだったため、オルジェイトゥのお気に入りとなった[2]。ワズィールのサアドゥッディーン・サーヴァジーはアリー・シャーが受けている寵愛に嫉妬し、これを遠ざけるため、彼にバグダードの官営工匠府総管の職を授けた[2]

オルジェイトゥ・ハンがバグダードに来た時、アリー・シャーは豪華な布帛と贅を尽くして飾った大舟を献上した[2]。オルジェイトゥ・ハンは彼のこの心尽くしに感謝の意を表し、彼を宮廷に奉侍させた[2]。あるとき、バグダードに美声に恵まれた一人の歌姫ががあり、彼女はオルジェイトゥのそばにいてアリー・シャーの出世のためにつくした[2]。しばらくして彼女はアリー・シャーの妻になった[2]

アリー・シャーはオルジェイトゥ・ハンに随行して新都スルターニーヤに赴き、かつて見たこともない壮麗なバザール、その他の建築物を建てさせた[3]。これにオルジェイトゥ・ハンを喜ばせ、アリー・シャーへの寵愛はさらに増大した[3]。これに対し、サアドゥッディーンはいかなる場合でもアリー・シャーを軽んじたが、一方で別のワズィールであるラシードゥッディーンはアリー・シャーに尊敬の念を示して常にへつらった[3]

ワズィールとなる

1312年2月19日、サアドゥッディーンが処刑されたため[4]、アリー・シャーは5月1日、オルジェイトゥ・ハンからワズィールに登用される[2]

オルジェイトゥの子でホラーサーン総督であるアブー・サイードからしばしば資金が足りないと請求が来たため、オルジェイトゥ・ハンはラシードゥッディーンとアリー・シャーに財政状況を問いただした[5]。ラシードは財政担当ではないので責任はないと答え、アリー・シャーは一緒に国を運営しているのだから連帯責任であるとし、今後はラシードも割符証書に捺印すればよいと答えた[5]。これに対しラシードは「人々が金銭を求めているときに、貴殿は自分の使用人に大金を支払っているにもかかわらず、貧乏なふりをして金銭をやらない貴殿とは協力できない」と言い、言い争いになった[5]。オルジェイトゥはこれをしばらく聞いたのち、2人で行政を分担するように命じ、ラシードにはイラーク・アジャミー、フーズィスターン、大ルル、小ルル、ファールスキルマーンを管轄させ、アリー・シャーにはアゼルバイジャン、イラーク・アラビー、ディヤール・バクル、アッラーン、ルームを管轄させた[6]。しかし、それでもホラーサーンからの請求がくるので、オルジェイトゥはアリー・シャーに尋ねると、「ラシードの担当です」と言ったが、ラシードは痛風で4か月間休養中だったため、オルジェイトゥはアミール・チョバンに過去3か月の帳簿を検査させた。するとアリー・シャーの4人の代官のミスで300トゥメンの不正会計がみつかった[7]。これにアリー・シャーはオルジェイトゥに泣いて誤ったため、厳重注意でとどまった[7]。これにアミール・イリンジンとアミール・チョバンは怒ったが、アリー・シャーは莫大な贈り物で彼らをなだめた[8]。しかし、アリー・シャーのラシードに対する反感はおさまらず、ラシードの仮病を非難し、ラシードが国庫から搾取したという嘘の告発もした[8]。これに対し、ラシードはアミール・トクマクに黄金を払って助かったが、以後もふたりの不和は続いていったため、オルジェイトゥ・ハンは和解するよう勅命を下した[8]

1316年12月にオルジェイトゥ・ハンが薨去すると[9]1317年4月、モンゴルの諸王侯、ハトゥンおよびイルハン朝の貴族たちは首都スルターニーヤにおいてクリルタイを開催し、アブー・サイードを第9代のイルハンに推戴した[10]。アブー・サイードは12歳であったため[11]、オルジェイトゥの遺言に従ってアミール・チョバンをスルターン代理官に指名し、二人のワズィールの地位を追認、ルームの長官をチョバンの子ティムール・タシュに、ディヤール・バクルの長官をアミール・イリンジンに、アルメニアの長官をスナタイに、ホラーサーンの長官をアミール・エセン・クトルグに任命した[12]

ラシードを死に追いやる

2人のワズィールであるラシードゥッディーンとアリー・シャーは常に対立していた[13]。アリー・シャーはラシードが大元帥チョバンの信頼が厚いことに不安になり、ありとあらゆる手段を使ってラシードを陥れようとした[13]。この二人の争いはディーワーン(財務省)の役人にも迷惑であったため、3人の主要な役人はアリー・シャーの汚職を立証できるから告発するようラシードに促したが、ラシードが応じなかったため、逆にアリー・シャーにラシードを陥れることを提案した[14]。そこでアリー・シャーはアブー・バクル・アカらと結託して讒言し、10月にラシードを罷免することに成功した[14]。アミール・セヴィンジはラシードの罷免に反対していたが、1318年1月に病没した[14]

1318年春、大元帥チョバンがラシードを復職させようとしたところ、それに不安になったアリー・シャーとディーワーンの役人たちは故オルジェイトゥ・ハンがラシード父子によって毒殺されたという嘘の告発をした[15]。これによってラシードッディーンとその子スルターン・イブラーヒームは7月に処刑された[16]。ラシードの邸宅は略奪を受け、その諸子の財産は没収され、ラシードの首は数日間タブリースの市中を引き回された[16]

ワズィールの職を全うする

1319年、チョバンに厳罰に処された将校のうち、クルミシ、ガザン、ブカ・イルドチらはチョバンを激しく非難した[17]。その後チョバンがグルジアの夏営地へ出発したのを見計らって、クルミシらはチョバンを追跡し、チョバンを強襲した[18]。チョバンはその子フサインと2人で逃げ出し、ナフチワーンのマリク・ズイアー・ウル・ムルクに援助を乞うたが断られた[19]。ワズィールのアリー・シャーはこのことを知るとすぐに出発し、マランドでチョバンを救出した[19]。クルミシはアミール・イリンジンをも抱き込み、チョバンがスルターニーヤに着くよりも先にチョバンが反乱が起こしたとアブー・サイードに嘘の報告した[20]。チョバンとアリー・シャーが戻るなり、すぐにそれが嘘であることをアブー・サイードに伝えると、反乱者に対して軍を起こした[21]。この戦いでアミール・イリンジン、トクマク、エセン・ブカは捕縛されて火あぶりにされ、逃げたクルミシ、ブカ・イルドチらも捕らえられ処刑された[22]

1324年のはじめ、アリー・シャーはその生涯を終えた[23]。イルハン朝のワズィールではじめて最期を全うした人物であった[23]。アブー・サイード・ハンはその2子にワズィール職を与えたが、互いに反目したため罷免し、ルクン・ウッディーン・サーインを次のワズィールに任命した[24]

脚注

注釈

出典

  1. ^ ドーソン 1979.
  2. ^ a b c d e f g h i ドーソン 1979, p. 220.
  3. ^ a b c ドーソン 1979, p. 221.
  4. ^ ドーソン 1979, p. 219.
  5. ^ a b c ドーソン 1979, p. 248.
  6. ^ ドーソン 1979, p. 249.
  7. ^ a b ドーソン 1979, p. 250.
  8. ^ a b c ドーソン 1979, p. 251.
  9. ^ ドーソン 1979, p. 254.
  10. ^ ドーソン 1979, p. 266-267.
  11. ^ ドーソン 1979, p. 267.
  12. ^ ドーソン 1979, p. 268.
  13. ^ a b ドーソン 1979, p. 271.
  14. ^ a b c ドーソン 1979, p. 272.
  15. ^ ドーソン 1979, p. 272-273.
  16. ^ a b ドーソン 1979, p. 273.
  17. ^ ドーソン 1979, p. 287.
  18. ^ ドーソン 1979, p. 288.
  19. ^ a b ドーソン 1979, p. 289.
  20. ^ ドーソン 1979, p. 290.
  21. ^ ドーソン 1979, p. 291.
  22. ^ ドーソン 1979, p. 293.
  23. ^ a b ドーソン 1979, p. 315.
  24. ^ ドーソン 1979, p. 315-316.

参考文献

  • ドーソン『モンゴル帝国史』 6、佐口透 訳注、平凡社東洋文庫 365〉、1979年。 
先代
サアドゥッディーン・サーヴァジー
イルハン朝のワズィール
1312年 - 1324年
次代
ルクン・ウッディーン・サーイン



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