ジェレミー・セツールとは? わかりやすく解説

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ジェレミー・セツール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 16:51 UTC 版)

ジェレミー・セツールJerremy Cettour1867年12月23日 - 1962年9月22日)は、フランス神父パリ外国宣教会に所属していた。来日し、山口、堺などで66年間宣教した。

生涯

1867年(慶応3年)12月23日フランスのレマン湖のほとりにある上サボアのアンシネー教区ポンヌボー村の農家の家庭に誕生。メランの小神学校を経てアンネシーの大神学校に進学。1894年(明治27年)助祭になり、パリ外国宣教会入会。1895年(明治28年)6月30日司祭叙階。同年12月マルセイユを出航。1896年(明治29年)1月16日に神戸上陸。大阪の川口教会でワスロン司教から日本語を学び始める。ほどなく司教死去。シャトロン新司教就任ののち同年10月岡山に移る。さらに1年間日本語学習。その後、山口と下関の主任司祭となる。以後25年間布教。山口教会の先任者ヴィリヨン神父が萩に伝道中であったが、山口の聖堂建築資材として神社の廃木を購入してくれた。これを用いて家を建て、8畳1間で20年間過ごした。下関、三田尻、徳山で布教。そののち山口教会の隣接地と古寺の材木を購入して教会を拡張し、司祭館を別に設置。1923年(大正12年)山口は広島教区所管となり、イエズス会に委任された。岸和田教会に転任。1年後、津にいたプイサン神父が岸和田教会に帰任したため、カスタニエ大阪司教より堺に教会を創設する命令を受けた。今の堺教会の敷地千坪を入手。1924年(大正13年)堺教会開設[注釈 1]1932年(昭和7年)日本視察中、堺教会に立ち寄ったパリ外国宣教会総長ド・ゲブリアン司教より5,000円を受け取り、幼稚園設立。1948年(昭和24年)西宮市のカルメル会付きの司祭に転任。1955年(昭和30年)6月30日司祭叙階60年のダイヤモンド祝賀祭が神戸の中山手教会で行われた。1958年(昭和33年)老衰のため神戸須磨の聖ヨハネ修院に迎えられる。1962年(昭和37年)9月22日神戸の聖ヨハネ修道院にて死去。神戸の修法ヶ原外国人墓地に埋葬。[1]

著書

  • 現時問題の解決 敎學研鑽和佛協會、1914年

脚注

注釈

  1. ^ 1924-1928初代主任司祭カトリック堺教会

出典

  1. ^ 『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、pp.197-201



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