シャルル・ド・ブルボン=コンデ (シャロレー伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 05:00 UTC 版)
シャルル・ド・ブルボン=コンデ Charles de Bourbon-Condé |
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シャロレー伯 | |
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出生 | 1700年6月19日![]() |
死去 | 1760年7月23日(60歳没)![]() |
父親 | コンデ公ルイ3世 |
母親 | ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン |
サイン | ![]() |
シャルル・ド・ブルボン=コンデ(フランス語: Charles de Bourbon-Condé、1700年6月19日 - 1760年7月23日)は、フランスの貴族である。コンデ公ルイ3世とルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン(ルイ14世とモンテスパン夫人の庶子)の次男として生まれ、シャロレー伯の称号を授けられた。ブルボン朝期の血統親王(プランス・デュ・サン)に属する。
生涯
シャルルは1700年6月19日、フランスのシャンティイ城で誕生した。彼の父は第6代コンデ公ルイ3世、母はルイ14世の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボンである。彼はシャロレー伯の称号を有し、1710年3月4日から1760年7月23日の死去までその地位にあった。
1720年にはトゥーレーヌの知事に任命された。軍事面では、ハンガリーにおけるオスマン帝国との戦い、特にベオグラードの戦いで功績を挙げた。1728年にはポーランドの有力な相続人であるマリア・ゾフィア・チャルトリスカの求婚者の一人として考慮された。また、甥であるルイ=ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデ(後のコンデ公)の知事も務めた。
シャルルは型破りな行動で知られていた。例えば、自分の御者に道で僧侶を見たら轢き殺すよう命じたり、ノートルダム大聖堂近くの袋小路でスペイン大使の御者を鞭で追い払ったりしたという逸話がある。また、マルキーズ・ド・サン=シュルピスのスカートに爆発物を括り付け、彼女を酔わせた後に爆発させ、重度の火傷を負わせたこともあった。さらに、特に理由もなく農民や労働者に向けて発砲するといった悪行も伝えられている。
その一方で、シャルルは財政管理と組織能力に優れていた側面もある。彼は甥の負債を整理し、その家計を立て直すことに貢献した。私生活では結婚することはなかったが、2人の庶子を儲けた。これらの娘たちは、シャルルの死後9年を経て、コンデ公によって嫡出子と認められた。
シャルルは1760年7月23日にパリで60歳で死去し、フランスのモンモランシーにあるサン=マルタン参事会教会に埋葬された。
参考文献
- 下津清太郎『ブルボン家』近藤出版社、1984年。
- "Charles de Bourbon-Condé (1700-1760)". Wikipédia. https://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_de_Bourbon-Cond%C3%A9_(1700-1760) (フランス語版Wikipedia、参照日: 2025年5月22日)
- "Charles de Bourbon, Count of Charolais". Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_de_Bourbon,_Count_of_Charolais (英語版Wikipedia、参照日: 2025年5月22日)
- Boisen Schmidt, Louise. "Charles de Bourbon-Condé, Comte de Charolais". This is Versailles. 2017年6月22日. http://thisisversaillesmadame.blogspot.com/2017/06/charles-de-bourbon-conde-comte-de.html (ブログ記事、参照日: 2025年5月22日)
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