ゲルハルト・フォン・キューゲルゲンとは? わかりやすく解説

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ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 14:00 UTC 版)

ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン
Gerhard von Kügelgen
自画像
生誕 1772年2月6日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ライン宮中伯領
バッハラッハ・アム・ライン
死没 1820年3月27日
ザクセン王国
ドレスデン
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フランツ・ゲルハルト・フォン・キューゲルゲンドイツ語: Franz Gerhard von Kügelgen, 1772年2月6日 - 1820年3月27日)は、ドイツ画家肖像画や歴史画で知られる。ドレスデンの芸術学院で講師を務め、プロイセンロシア帝国の芸術学院の会員であった。双子の弟のカール・フォン・キューゲルゲンも画家である。

経歴

現在のラインラント=プファルツ州のバッハラッハ・アム・ラインの出身。1789年に学校を卒業後、コブレンツで絵を学んだ。ボンに移り、マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ選帝侯やフェルディナント・アウグスト・フォン・シュピーゲル、ヴァルトシュタイン伯を描いた。選帝侯の出資で、1791年に弟のカールとともにローマに留学し、その後ミュンヘンリガを旅した。

1800年にヘレーネ・マリー・ツォーゲ・フォン・マントイッフェルと結婚、ヴィルヘルム(1802年生)、ゲルハルト(1806年生)、アーデルハイト(1808年生)の三子をもうけた。長男のヴィルヘルムは1802年にサンクトペテルブルクで生まれ、後に画家になった。

キューゲルゲンはその生涯でカスパー・ダーヴィト・フリードリヒゲーテヘルダー、アウグスト・フォン・コッツェブー、シラー、ヨハン・ゴットフリート・ソイメ、ルートヴィヒ・ウーラント、ツァハリアス・ヴェルナー、ヴィーラント、ヨハン・カール・シモン・モルゲンシュテルンなどの肖像を描いた。ドレスデンで住まいとした Gottessegen は、初期ロマン主義の芸術家や支持者が集うサロンとなった。

1820年、キューゲルゲンはロシュヴィッツのアトリエからドレスデンに向かう途中、山賊に殺害された。遺体はドレスデンの旧カトリック墓地に葬られた。

小惑星のキューゲルゲン (11313) は彼と息子のヴィルヘルムにちなみ命名された[1]

作品

脚注

参考文献

外部リンク




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