カール・エマヌエル_(ヘッセン=ローテンブルク方伯)とは? わかりやすく解説

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カール・エマヌエル (ヘッセン=ローテンブルク方伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/12 07:37 UTC 版)

カール・エマヌエル
Karl Emanuel von Hessen-Rotenburg
ヘッセン=ローテンブルク方伯
在位 1778年12月30日 - 1812年3月23日

出生 (1746-06-05) 1746年6月5日
ランゲンシュヴァルバッハ
死去 (1812-03-23) 1812年3月23日(65歳没)
フランクフルト・アム・マイン
配偶者 レオポルディーネ・フォン・リヒテンシュタイン
子女 ヴィクトル・アマデウス
クロティルデ
家名 ヘッセン=カッセル家
父親 ヘッセン=ローテンブルク方伯コンスタンティン
母親 マリア・エーファ・ゾフィア・フォン・シュタルヘンベルク
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カール・エマヌエルKarl Emanuel von Hessen-Rotenburg1746年6月5日 - 1812年3月23日)は、ヘッセン=ローテンブルク方伯(在位:1778年 - 1806年)。ヘッセン=ローテンブルク方伯コンスタンティンとその最初の妻マリア・エーファ・ゾフィア・フォン・シュタルヘンベルクの間の長男として生まれた。名前は洗礼の代父を務めた義理の伯父のサルデーニャカルロ・エマヌエーレ3世に因む。

1757年よりオーストリア軍の胸甲騎兵連隊の連隊長を務め、将軍の地位を得てから退役し、1778年にヘッセン=ローテンブルク方伯家の家督を継いだ。1806年に本家のヘッセン選帝侯領ナポレオン1世フランス軍に占領され、ヴェストファーレン王国領に併合された際、カール・エマヌエルの治めるヘッセン選帝侯領の分封領「ローテンブルガー・クヴァルト(Rotenburger Quart)」も運命を共にした。1812年に亡命先のフランクフルト・アム・マインで死去した。

子女

1771年にリヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世の娘レオポルディーネ(1754年 - 1823年)と結婚し、間に1男1女をもうけた。

  • ヴィクトル・アマデウス(1779年 - 1834年) - ヘッセン=ローテンブルク方伯 
  • クロティルデ(1787年 - 1869年) - 1811年、ホーエンローエ=バルテンシュタイン侯カール・アウグストと結婚

脚注


カール・エマヌエル (ヘッセン=ローテンブルク方伯)

1746年6月5日 - 1812年3月23日

ドイツの君主
先代
コンスタンティン
ヘッセン=ローテンブルク方伯
1778年 - 1812年
次代
ヴィクトル・アマデウス



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