カイカーウス1世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > カイカーウス1世の意味・解説 

カイカーウス1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/23 02:17 UTC 版)

カイカーウス1世
عز الدين كيكاوس بن كيخسرو;
ルーム・セルジューク朝君主
スィノプに残るカイカーウスの二言語碑文
在位 1211年 - 1220年

死去 1220年
埋葬 スィヴァスシファイイェ・メドレセトルコ語版
王朝 ルーム・セルジューク朝
父親 カイホスロー1世
テンプレートを表示

カイカーウス1世アラビア語ペルシア語: عز الدين كيكاوس بن كيخسرو‎; トルコ語: I. Izzeddin Keykavus; ? - 1220年)は、ルーム・セルジューク朝スルタン(在位:1211年1220年)。

生涯

前スルタン・カイホスロー1世の息子。1211年に父が死ぬと、弟のカイクバードと後継の座を争い、勝利して弟を幽閉した。ルーム・セルジューク朝の経済的自立を目指し、キプロス王国と交易条約を締結。さらに地中海の海上交易路獲得を目指し、南方のキリキアにあるキリキア・アルメニア王国を服属させた。また第5回十字軍と結び、アイユーブ朝に二正面戦争を強いた。

1214年にトレビゾンド帝国アレクシオス1世シノーペー(スィノプ)包囲戦で捕虜とし、身代金として黒海に面するスィノプの港を割譲させた。スィノプは地中海のアンタルヤと共に、ルーム・セルジューク朝の重要な海上交易拠点となった。カイカーウスはこの重要都市の総督にアルメニア人ライス・ヘトウムを任命し、1215年にはギリシア人セバストスの監督下で城壁が修復された。修復を記念するアラビア語とギリシア語で書かれた碑文が、西門に近い塔にはめ込まれている。

1217年にはスィヴァスシファイイェ・メドレセトルコ語版を着工した。このメドレセには病院も付属していた。カイカーウスは1220年に急死し、シファイェ・メドレセの廟に葬られた。青いタイルで飾られたその墓室と石棺は現存し、公開されている。スルタン位は弟カイクバードが継いだ。

関連項目

先代
カイホスロー1世
ルーム・セルジューク朝君主
1211年 - 1220年
次代
カイクバード1世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カイカーウス1世」の関連用語

カイカーウス1世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カイカーウス1世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカイカーウス1世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS