オストロミール
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教会スラヴ語による「ヨハネによる福音書」の冒頭部分。
オストロミール(ロシア語: Остромир、? - 1056年もしくは1057年以降)はキエフ・ルーシ期の軍司令官、政治家である。1054年から1057年にかけてはノヴゴロドのポサードニクの地位にあった。
オストロミールはドブルィニャ (ru:Добрыня) (キエフ大公ウラジーミル1世の母・マルシャ (ru:Малуша) の兄弟)の孫、コンスタンチン (ru:Константин Добрынич) の子であり、ヴィシャタの父である[1]。また、主君であったキエフ大公イジャスラフ1世と縁戚関係にあり(イジャスラフ1世はマルシャの曾孫にあたる)、ノヴゴロドの地 (ru:Новгородская земля) のようなキエフ大公国領の広範囲を管轄する、事実上のイジャスラフの共同統治者であった。
『ソフィヤ第一年代期 (ru:Софийская первая летопись) 』[注 1]には、1054年より、イジャスラフ1世に派遣されたノヴゴロドのポサードニクとして言及されており、また1056年にチュヂ族との戦いで戦死したことが記されている。ただしニコライ・カラムジンは、オストロミールの依頼によって編纂された『オストロミール福音 (ru:Остромирово Евангелие) [2]』の後書きに注目し、1057年にはまだオストロミールは生存していたとみなしている。
なお、オストロミールの妻のフェオファラは、ヤロスラフ1世(イジャスラフ1世の父)の世帯の出身者であったとする仮説があるが[3]、史料が乏しく、いくつかの仮説の上に立つ説である。また、フェオファラをウラジーミル1世とその妻の1人・アンナとの間の娘とする説もある[3]。
脚注
注釈
- ^ 「ソフィヤ第一年代期」は ロシア語: Софийская первая летопись の直訳による。
出典
- ^ (ロシア語) «О родстве святого Владимира по матери», в «Записках Императорской Академии Наук». 5. (1864)
- ^ 中沢敦夫『ロシア古文鑑賞ハンドブック』群像社、2011年11月、37頁。ISBN 978-4-903619-30-9 。
- ^ a b “А. Поппэ (Польша). Феофана Новгородская” (ロシア語). annales.info. 2014年12月29日閲覧。
参考文献
- Рыбаков Б. А. Древняя Русь. Сказания. Былины. Летописи, Москва 1963.
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