エランブルジュ (メーヌ女伯)とは? わかりやすく解説

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エランブルジュ (メーヌ女伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 04:33 UTC 版)

エランブルジュ・デュ・メーヌ
Eremburge du Maine
メーヌ女伯
在位 1110年 - 1126年

称号 シャトー=デュ=ロワール女領主
アンジュー伯妃
出生 1096年ごろ
ペイ・ド・ラ・ロワール ラ・フレーシュ
死去 1126年1月14日
配偶者 アンジュー伯フルク5世
子女 一覧参照
家名 ラ・フレーシュ=ド・ボージャンシー家
父親 メーヌ伯エリー1世
母親 マティルド・ド・シャトー・デュ=ロワール
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エランブルジュ・デュ・メーヌフランス語Eremburge du Maine, 1096年ごろ - 1126年1月14日)またはエランブルジュ・ド・ラ・フレーシュEremburge de la Flèche)、エランブルジュ・ド・ボージャンシーEremburge de Beaugency)は、メーヌ女伯及びシャトー=デュ=ロワール仏語版女領主(在位:1110年 - 1126年)。内祖母ポーラ・デュ・メーヌはボージャンシーのユーグ家出身であり、エランブルジュはメーヌ家の傍系にあたる。

名はエランブールErembourg)あるいはアランブルジュAremburge)と表記されることがあるが、本項目ではエランブルジュの表記で統一する。

生い立ち

中世の修道士であり歴史家のオルデリック・ヴィタリス仏語版が著した『教会史』第4巻第2章によると、エランブルジュはメーヌエリー1世とその妻マティルドの一人娘として生まれたという[1]。両親に他の子女はいない。母マティルドはシャトー・デュ・ロワール卿ジェルヴェの娘である[1]。父エリー1世は、オルデリック・ヴィタリスの記録に「エリー、ジャンとポーラの息子でありメーヌ領主ユーグの従弟(ラテン語:Helias, Johannis et Paulæ filius, Hugonis Cenomannorum consulis consobrinus)」とあるように、ラ・フレーシュ卿ジャン・ド・ボージャンシー(1097年没)とその妻ポーラ・デュ・メーヌの三男にあたる[2][3]

エランブルジュの内祖母にあたる、父エリーの母ポーラはかつてのメーヌ伯エルヴェール1世エヴィル=シアン(目覚犬伯)の三女にあたり、オルデリック・ヴィタリスの『教会史』第8巻第3章にも、そこにはポーラの名は記されていないが「エルヴェール(filia Herberti)とその妻(名前も系譜も不明の女性)の三女として産まれる[4]」と記されている。

生涯

1106年イングランド王ヘンリー1世は、実兄であるノルマンディー公ロベール2世からノルマンディーを奪った後、父に促されてメーヌ伯領を弱体化させるようになった。

父メーヌ伯エリーはアンジュー伯フルク4世に近付き、娘エランブルジュとアンジューの相続人となるフルクの息子(最初は長男ジョフロワ4世マルテル伊語版と婚約、後の1106年に次男フルク[5]に相手を変更)との婚約に合意した[6]

エリー1世は、没するまでさらに10年間[5]領地を維持した。エリーは『アンデガベンシスのサンクティ・アルビノの年代記(ラテン語Annale Sancti Albini Andegavensis)』によると1110年[5]7月11日[7]に死去した。

「娘エランブルジュが父の後を継ぎ、その後すぐにアンジュー伯フルク5世[注釈 1]と結婚し[1]、メーヌとアンジューが再統一された[6]。」とされている。

イングランド王ヘンリー1世1069年に実兄ノルマンディー公ロベール2世が喪失したメーヌの統治権を取り戻そうとしたため、外交的解決策が見出されるまで、ノルマンディーとの関係は対立を続けていた。

1119年、エランブルジュと夫アンジュー伯フルク5世は、2人の長女マティルドをヘンリー1世の嫡男で唯一の後継者ウィリアムと婚約させ[注釈 2]結婚させたが[注釈 3]、1120年にホワイトシップの遭難でウィリアムが事故死[注釈 4]したため、和睦の試みは失敗に終わった。

アンジューとノルマンディーの関係はメーヌを巡って再び緊張し、若き日のフルク5世はフランス王ルイ6世と同盟し、イングランド王ヘンリー1世に対抗したが、再び外交的解決が図られた[注釈 5]。しかし、その数ヶ月前の1126年1月14日にエランブルジュは死去し、その日を見ることはなかった。

メーヌ伯の称号は夫フルク5世に遺された。

妻を喪ったフルク5世はフランスの領地をすべて息子のジョフロワに譲渡した後、エルサレムに渡り、エルサレム王ボードゥアン2世の長女メリザンド英語版(1101年 - 1161年)と再婚した。

子女

エランブルジュは夫フルク5世との間に以下4子に恵まれた[8]

注釈

  1. ^ フルク5世は、前年の1109年に父フルク4世の跡を継いでいた。
  2. ^ この婚約では、エランブルジュの死後、娘マティルドとウィリアム・アデリン夫婦がメーヌ伯爵位を相続することが定められていた。
  3. ^ 結婚式は1119年6月にリジューで取り行われた。
  4. ^ ウィリアム・アデリンは、1120年11月25日にノルマンディーのコタンタン海岸沖で乗っていた「ホワイトシップ号」が夜間に岩場に衝突し、難破したことにより命を落とした。
  5. ^ アンジューメーヌテュレンヌの各領の相続人であるジョフロワ4世は、1127年にヘンリー1世の娘マティルダと婚約した。マティルダはノルマンディー公国イングランド王国の相続人であった。

脚注

参考文献

一次資料

史学文献

  • Muratori L. A. Delle Antichità Estensi ed Italiane, Parte I.
  • Louis Halphen, "La Francia dell'XI secolo", cap. XXIV, vol. II (L'espansione islamica e la nascita dell'Europa feudale) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 770–806.
  • William John Corbett, "L'evoluzione del ducato di Normandia e la conquista normanna dell'inghilterra", cap. I, vol. VI (Declino dell'impero e del papato e sviluppo degli stati nazionali) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 5–55.
  • William John Corbett, "Inghilterra, 1087-1154", cap. II, vol. VI (Declino dell'impero e del papato e sviluppo degli stati nazionali) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 56–98.

関連項目

外部リンク

先代
エリー1世
メーヌ女伯
1110年 - 1126年
フルク5世と共同統治)
次代
フルク5世



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