エマヌイル・エヴゼリヒンとは? わかりやすく解説

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エマヌイル・エヴゼリヒン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/01 19:57 UTC 版)

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エマヌイル・ノエヴィチ・エヴゼリヒン
Эммануил Ноевич Евзерихин
生誕 (1911-07-22) 1911年7月22日 [1]
ロストフ・ナ・ドヌ ロシア帝国
死没 1984年3月28日(1984-03-28)(72歳)
モスクワ ソビエト連邦
職業 フォトジャーナリスト、記録写真家、写真教育家

エマヌイル・ノエヴィチ・エヴゼリヒン(Эммануил Ноевич Евзерихин)は、戦前期からのソビエト連邦フォトジャーナリストである。

伝記

1911年ロストフ・ナ・ドヌで生まれた。1920年代[2]の終わりにフリーランスの通信員としてプレス・クリーシェ・タス(Пресс-клише ТАСС)で働き始めた。1933年からフォトフローニケ・タス:Фотохронике ТАСС(現、フォトフローニカ・タスロシア語版)で働いた。 1934年モスクワへ異動した。モスクワで働きながらエヴゼリヒンはコミンテルン大会、憲法を採択したソビエト議会、建設工事[3]、北極遠征、スポーツパレード等の時代を画する大イベントを撮影する機会を得た。マキシム・ゴーリキーミハイル・イワノヴィッチ・カリーニン等の文化・芸術界の卓越した人物や著名な飛行士ヴァレリー・チカロフミハイル・グロモフを撮影した。

戦時[4]中、数多くの前線で撮影した。最も著名な写真群はスターリングラードで写された。 ミンスクワルシャワ、ケーニヒスベルク(現、カリーニングラード)等[5]の諸都市の解放に立会い、プラハで終戦を迎えた。2つの赤星勲章、2等祖国戦争勲章および幾つかのソ連邦記章ロシア語版を授与された。

戦後はTASS E(ТАСС, Э)で働いた。エヴゼリヒンは通信制人民芸術大学ロシア語版の通信教育課程で写真術の基礎を教え、全国へ講義して回った。 彼は1984年に亡くなった。

参考

ロシア美術館2007年3月展覧会資料 露語”. 2016年1月1日閲覧。

ロシア美術館2007年3月展覧会資料 英語”. 2016年1月1日閲覧。

外部リンク

写真作品閲覧の便宜のために可読性が無いことを承知の上でリンクを記載する。

脚注

  1. ^ 旧暦か新暦か判然としない。
  2. ^ 露語版、英語版共に1930年代としているが、この後に1933年と1934年の事歴を記述するのでは辻褄が合わない。2007年の[ロシア美術館]展覧会資料の略歴では1929年とある。よって1920年代とした。
  3. ^ モスクワ地下鉄、モスクワの多階団地、ドニエプル水力発電所ロシア語版トルキスタン・シベリア鉄道など。
  4. ^ 大祖国戦争
  5. ^ ロストフ・ナ・ドヌ、タガンログノヴォチェルカッスクドネツ盆地とクリミアの諸都市



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