エドマンド・モーティマー_(1376-1409)とは? わかりやすく解説

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エドマンド・モーティマー (1376-1409)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/01 04:42 UTC 版)

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エドマンド・モーティマー
Edmund Mortimer

出生 1376年12月10日
死去 1409年
ウェールズハーレフ城
配偶者 キャサリン(オワイン・グリンドゥールの娘)
子女 ライオネル
娘3人
父親 第3代マーチ伯エドマンド・モーティマー
母親 第5代アルスター女伯フィリッパ
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サー・エドマンド・モーティマー(Sir Edmund Mortimer、1376年12月10日 - 1409年)は、イングランドの騎士。第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーとイングランド王エドワード3世の次男・クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの1人娘フィリッパの末子。兄は第4代マーチ伯ロジャー・モーティマー、姉エリザベスはヘンリー・パーシー(ホットスパー)の妻。

生涯

1402年6月、ウェールズでイングランド王ヘンリー4世反乱を起こしていたオワイン・グリンドゥールの討伐に向かったが、敗れて捕虜になった。ヘンリー4世が解放する素振りを見せなかったことに憤慨したモーティマーはグリンドゥールに寝返り、同年11月に彼の娘キャサリンと結婚した。さらに、同じくヘンリー4世に不満を抱く義兄のホットスパーとその父ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、ダグラス伯アーチボルド・ダグラス英語版らと結託、甥の第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーをイングランド王に就ける計画を企てた[1][2][3]

だが、反乱は翌1403年にホットスパーが敗死したことで失敗、1405年にノーサンバランド伯がスコットランドへ亡命して劣勢になったモーティマーはグリンドゥールと共にハーレフ城へ退去した。やがてハーレフ城もヘンリー王太子(後のヘンリー5世)率いるイングランド軍に包囲され、モーティマーは包囲中の1409年に死んだとされるが、戦死またはペスト感染とされ死因は明らかでない。妻キャサリンとの間に息子ライオネルと3人の娘を儲けたが、息子を除く家族はイングランド軍に捕らえられロンドン塔へ送還、1413年に死亡が記録されている。グリンドゥールも行方不明となり反乱は鎮圧された[4][5][6]

ウィリアム・シェイクスピアは戯曲『ヘンリー四世 第1部』でモーティマーがグリンドゥールに捕らえられた出来事を書いているが、彼を同名の甥であるマーチ伯と間違えて劇に登場させている[7]

脚注

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  1. ^ 森 1986, pp. 188-189
  2. ^ フィッシャー 2007, pp. 53-54
  3. ^ ロイル 2014, pp. 94-98
  4. ^ 森 1986, p. 189
  5. ^ フィッシャー 2007, pp. 54-56
  6. ^ ロイル 2014, p. 106
  7. ^ 森 1986, p. 188

参考文献




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