ウッジャイン及びプネーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/19 15:10 UTC 版)
「ダウラト・ラーオ・シンディア」の記事における「ウッジャイン及びプネーの戦い」の解説
1800年4月に宰相府の財務大臣ナーナー・ファドナヴィースが死亡したのち更なる対立状態となり、1801年7月4日にウッジャインにおいて、シンディア家の軍はホールカル家の軍に破れ、大きな損害を与えた(ウッジャインの戦い)。 1801年4月、王国宰相バージー・ラーオ2世は捕えたヴィトージー・ラーオを象に踏みつぶさせて殺すという極めて残虐な方法で処刑し、ヤシュワント・ラーオの恨みを買うこととなった。 1802年5月、ヤシュワント・ラーオはプネーに向けて進撃し、マーレーガオン、アフマドナガル、プランダル、ナーシク、ナーラーヤンガーオン、ネールなどを次々に落とし、プネーに迫った。シンディア家はホールカル家との対立から宰相府に援軍を送り、ともにこれを迎撃するところとなった。 そして、同年10月25日にヤシュワント・ラーオはバージー・ラーオ2世とシンディア家の軍を破り、宰相府プネーを占領した(プネーの戦い)。
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