アンヌ・ドルレアン_(1938-)とは? わかりやすく解説

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アンヌ・ドルレアン (1938-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/21 03:45 UTC 版)

アナ
Ana
ブルボン=オルレアン家
アンヌ・ドルレアンと夫カルロス
称号 カラブリア公妃
全名
出生 (1938-12-04) 1938年12月4日(78歳)
ベルギーヴォリュウェ=サン=ピエール
配偶者 カルロス・デ・ボルボン=ドス・シシリアス
子女
父親 アンリ
母親 イザベル
宗教 キリスト教カトリック教会
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スペイン王室


フアン・カルロス1世
ソフィア王妃

アンヌ・ドルレアンフランス語: Anne d'Orléans, 1938年12月4日 - )は、カラブリア系両シチリア王家家長・スペイン王子カルロスの妃。スペイン語名はアナ・デ・オルレアンス・イ・オルレアンス=ブラガンサAna de Orleans y Orleans-Braganza)、イタリア語名はアンナ・ドルレアンスAnna d'Orléans)。

経歴

フランスオルレアニスト王位請求者相続人のパリ伯アンリとその妻イザベルブラジル皇子およびグラン・パラ公ペドロ・デ・アルカンタラの長女)の間の三女(第5子)として生まれた。若年期はモロッコスペインポルトガルを転々として過ごした。

ブルガリア王シメオン2世と恋仲に陥ったが、教皇庁カトリック信徒以外との結婚を認めなかったため、二人の関係は破局せざるを得なかった。

1962年にアテネで行われたスペインのフアン・カルロス王子(後のスペイン王フアン・カルロス1世)とギリシャ王女ソフィアの結婚式に出席した頃から、幼馴染みであったカラブリア公爵家の嗣子でスペイン王室の一員であるカルロスと交際するようになった。父アンリがカルロスの父アルフォンソの両シチリア王位請求を認めていなかったために結婚への道筋は難航したが、最終的にアンリの譲歩によって二人の結婚は認められた。1965年5月11日にルーヴシエンヌで法律婚の手続きを行い、翌5月12日にドルーサン=ルイ王室礼拝堂英語版で宗教婚の結婚式を挙げた。

子女

カルロスとの間に1男4女を儲けた。

  • クリスティーナ(1966年 - ) 1994年にペドロ・ロペス=ケサーダ・イ・フェルナンデス=ウルティアと結婚
  • マリア英語版(1967年 - ) 1996年にオーストリア大公ジメオン英語版ルドルフ大公の次男)と結婚
  • ペドロ英語版(1968年 - ) ノト公、2001年にソフィア・ランダルーセ・イ・メルガレホと結婚
  • イネス(1971年 - ) 2001年にナポリ貴族のライアーノ侯爵ミケーレ・カレッリ・パロンビと結婚
  • ビクトリア(1976年 - ) 2003年にギリシャ人海運業者マルコス・ノミコスと結婚
カラブリア公爵夫人アンヌの紋章



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