アニーシヤ・ブラーホヴァとは? わかりやすく解説

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アニーシヤ・ブラーホヴァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/04 04:59 UTC 版)

アニーシヤ・アレクサンドロヴナ・
ブラーホヴァ
出生名 Анисья Александровна Лаврова
生誕 1832年1月8日
ユリウス暦1831年12月27日)
死没 1920年(88歳頃没)
ジャンル クラシック
職業 歌手ソプラノ
活動期間 1849年 - 1872年
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アニーシヤ・アレクサンドロヴナ・ブラーホヴァロシア語: Анисья Александровна Булахова, ラテン文字転写: Anisiya Aleksandrovna Bulakhova1832年1月8日ユリウス暦1831年12月27日) - 1920年)は帝政ロシア時代のオペラ歌手ソプラノ)。

概要

家族

有名な音楽家の一族であるブラーホフ家の一員で、夫はサンクトペテルブルク帝室劇場の第1テノールとして20年以上にわたり活躍したパーヴェル・ブラーホフ。義父はモスクワ・ボリショイ劇場で活躍したテノール歌手ピョートル・アレクサンドロヴィチ・ブラーホフ、義兄は作曲家で多くのロシア・ロマンスを遺したピョートル・パヴロヴィチ・ブラーホフ。

経歴

本姓はラヴレンティエヴァ(Лаврентьева)、芸名としてラヴロヴァ(Лаврова)を名乗る。1843年よりモスクワ演劇学校で音楽教育を受け、1849年にモスクワのペトロフスキー劇場でマイアベーアの『悪魔のロベール』のイザベル役でデビューする。1851年にサンクトペテルブルクに進出[注 1]ウェーバーの『魔弾の射手』のエンヒェンを歌い、まもなく帝室劇場のプリマドンナとなった。1854年に結婚、ダルゴムイシスキーの『ルサルカ』(1856年初演)では夫婦揃って主役級を演じた。ブラーホヴァは強い声ではなかったが、心地よい音色の持ち主であり、生き生きとした演技で観客を魅了したと言われる[2]

1872年に舞台を引退し、1920年に没した。

脚注

注釈

  1. ^ ペテルブルク進出を1852年とする説もある[1]

出典

参考文献




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