アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/08 17:09 UTC 版)
![]() アッピウス・クラウディウス・プルケル Ap. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher[1] |
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出身階級 | パトリキ |
一族 | プルケル |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 | トリブヌス・ミリトゥム(紀元前196年) レガトゥス(紀元前195年-194年、191年) プラエトル・ペレグリヌス(紀元前188年?) コンスル(紀元前185年) レガトゥス(紀元前184年) ラケダイモン人聴取委員(紀元前183年) レガトゥス(紀元前174年-173年) |
アッピウス・クラウディウス・プルケル(ラテン語: Appius Claudius Pulcher、紀元前2世紀、生没年不詳)は、共和政ローマの政務官。父は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟にはプブリウス・クラウディウス・プルケルがいる。
197年から3年間。ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス配下のトリブヌス・ミリトゥムとしてアンティゴノス朝(マケドニア王国)のフィリッポス5世と戦う。紀元前191年にはセレウコス朝のアンティオコス3世と対戦、続いて執政官マニウス・アキリウス・グラブリオの指揮下でアエトリアに遠征した。そして紀元前187年にプラエトルとしてタレントゥム(現ターラント)の総督となる。
紀元前185年に執政官としてリグリアに出征、そして議会に強行介入して紀元前184年に兄弟のプブリウスをコンスルにさせ、自らはマケドニアとギリシアへ赴き、動向を探った。紀元前176年にはマケドニア王ペルセウスに対抗するために外交のためアエトリアに赴いている。
家族
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官):父
- プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官):兄弟
- ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官):兄弟
出典
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
公職 | ||
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先代 スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス クィントゥス・マルキウス・ピリップス |
執政官 同僚:マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス 紀元前185年 |
次代 プブリウス・クラウディウス・プルケル ルキウス・ポルキウス・リキヌス |
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