総国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/11 14:29 UTC 版)
参考文献
- 相賀徹夫・編 『日本大百科全書 20』 小学館 1987年。ISBN 4-09-526020-3
- 石井進他・編 『千葉県の歴史』 山川出版社 2000年。ISBN 4-634-32120-3
- 原島礼二・著『古代東国の風景』 吉川弘文館 1993年。ISBN 4-642-07394-9
- 加藤謙吉他・編『日本古代史地名事典』 雄山閣 2007年。ISBN 978-4-639-01995-4
- 楠原佑介他・編『古代地名語源辞典』 東京堂出版 1981年。ISBN 4-490-10148-1
- 森浩一・著『関東学をひらく』 朝日新聞社 2001年。ISBN 4-02-257584-0
- 木下正史・著『藤原京』 中央公論新社 2003年。ISBN 4-12-101681-5
- 千葉県史料研究財団・編『千葉県の歴史 通史編 古代2』(千葉県、2001年)
- 黒板勝美他・編『扶桑略記・帝王編年記(新訂増補 国史大系 第12卷)』 吉川弘文館 1965年。
- 白石太一郎『東国の古墳と古代史』 学生社、2007年、ISBN 978-4-311-20298-8
- 楠原佑介他・編『地名用語語源辞典』 東京堂出版 1983年。ISBN 4-490-10176-7
- 森公章・著『古代豪族と武士の誕生』 吉川弘文館 2012年。ISBN 978-4-642-05760-8
関連項目
先代 - |
区域の変遷 ? - 6世紀中葉 |
次代 上捄国・下捄国 |
注釈
- ^ a b 大宝4年(704年)に、全国の国印が一斉に鋳造された際、改められたものと考えられている(『日本古代史地名事典』「上総国」の項)。
- ^ 武社国には、6世紀中葉から7世紀初頭にかけ、小池・芝山古墳群、大堤・蕪木古墳群、胡麻手台古墳群、板附古墳群を造営した4つの勢力があったと考えられている(『東国の古墳と古代史』「上総・駄ノ塚古墳」の項)。
- ^ 他に「総」の語源として、フサグ(塞)の語幹で「何かをさえぎる地」のこと、ボサの転で「雑草などの茂み、やぶ」の意、フシ(節)の転で「高所」のこと、クサ(朽、腐)の転で「崩壊地形」を示すなどの説があるが、あくまでも仮の説である(『地名用語語源辞典』「ふさ」の項)。
- ^ 藤原京から木簡が出土した当初は、「上挟国阿波評松里」と解読されていたが、その後の研究で「上捄国阿波評松里」に解読し直された(挟→捄)。
- ^ 下総国海上国造の後裔を称する他田日奉神護が、正倉院文書に遺した「他田日奉部直神護解」には、神護の祖父忍が孝徳期に少領であったことが書かれており、香島評立評に際してこれに同意したことがうかがえる(『古代豪族と武士の誕生』「乙巳の変と評制の施行」の項)。
- ^ ただし、令制国としての上総国・下総国の成立は、他の令制国と同じく律令制の確立によるものとされる。
出典
- ^ 『日本大百科全書』「総国」の項
- ^ a b 『千葉県の歴史』「千葉と房総三国の名の由来」の項
- ^ 長狭国造は『古事記』・千葉国造は『日本後紀』より、他の国造は『旧事本紀』の「国造本紀」より
- ^ 『古代東国の風景』「大和王権と房総」の項
- ^ a b 『日本古代史地名事典』「上総国」の項
- ^ 『古代地名語源辞典』「武蔵」の項
- ^ 『関東学をひらく』「政商・漆部伊波のこと」の項
- ^ a b 『藤原京』「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」
- ^ 『千葉県の歴史 通史編 古代2』第1編第2章「房総三国の成立」
- ^ 『帝王編年記』巻7 安閑天皇元年(101頁)
- ^ 『古代地名語源辞典』「総」の項
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