田中美津
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経歴
1943年、東京文京区本郷吉祥寺前の魚屋「魚菊」の三女(五人兄弟の四番目)として生まれる。仮死状態で生まれ、百日咳でよく学校を休む虚弱児だった[1][2]。尋常高等小学校出の学歴のない両親のもと、世の中の価値観や権威を押し付けられることなく育った[3]。
一方、小学校2年生のとき、家業の従業員に[4]チャイルド・セクシャル・アビューズ(幼児への性的虐待)を受けた[5]。このことにより、「女性差別」と「虚弱なからだ」は生涯のテーマとなっていく[6]。実家は中学2年生くらいの時期に割烹料理店に商売替えをしており、家運は上向きとなっている[7]。
高校卒業後コピーライターの養成所に通ったのち、宣伝会社に就職したが9か月で社内不倫により退社。実家が営む料理店で家事手伝いをする[8]。大学には進学していない。自分の生き方を探す中で、22歳から24歳にかけて自分を生かすためにお見合いを2回しているが、自分から断っている。近所に住むベトナム青年がカンパを取りにきたのをきっかけに、ベトナム戦災孤児の救援活動に参加[9]、それが反戦活動「反戦あかんべ」という市民グループ結成につながっていく[10]。また、東京大学の赤門付近に居住していたことにより、カルチェ・ラタン闘争や各種市民運動に参加した[11]。その後、山谷の運動や秋葉原で働く労働者の解雇撤回闘争などに関わっていく[12]。
安田講堂にこもった赤軍派の若者に宿として提供。本郷三丁目の自宅がアジト化し、革命を叫ぶ男たちを観察する中で失望し[13]、女性解放に目覚める。ヴィルヘルム・ライヒ『性と文化の革命』を読み感銘を受ける[14]。
1970年8月、「女性解放連絡会準備会」を設立[15]。同年10月4日、朝日新聞都内版は、各地で女性解放のためのグループがつくられていると報じ、運動の原語の「Women's liberation movement」を「ウーマン・リブ」と名付け、見出しに掲げた[15]。田中は記事の中で「女性解放連絡会準備会」の呼びかけ人として紹介された[16]。
同年10月21日の国際反戦デーに女性だけによるデモが行われ、田中らは「便所からの解放」という手書きのビラをまいた。日本でウーマンリブが社会的注目を浴びたのはこの日のデモが最初だといわれる[17][18][19]。田中はウーマンリブ運動の先駆者となった[20]。このとき田中は、チラシ配布時の女性たちの反応に、「時代を掴んだっ!」と思ったという[21]。加納実紀代は「リブにはさまざまな流れがあり、それがリブの豊かさとエネルギーを生んでいる」としながらも「リブ=田中美津さんの感がつよい」「田中美津なくして日本のリブは語れない」と述べている[22]。
1971年8月21日~24日、長野・信濃平スキー宿ヒュッテ鈴荘にて第1回リブ合宿が、田中をリーダーとする「ぐるーぷ闘うおんな」や思想集団「エス・イー・エックス」などのリブ合宿実行委員会の呼びかけにより開催された。10代から40代までの子連れを含む約300人が全国から集まった[23]。
1972年9月、「ぐるーぷ闘うおんな」のリーダーとして、東京代々木のマンション内にウーマンリブ運動の一拠点として「リブ新宿センター」を設立。「エス・イー・エックス」「闘う女性同盟」「緋文字」「東京こむうぬ」の4グループ(総勢約20名)とともに運営された。メンバーの中で田中は最年長で、運動を楽しくするために様々なアイディアを発想、実施した[24]。同センターは女性の駆け込み寺として、また中絶や避妊また法律などの相談センターとしても機能したほか、様々な講座開催や抗議運動など多彩な活動を展開し、1977年7月に閉所している。この活動資金となった「リブニュース」(1972年10月1日創刊、18回発行)に田中は多くの文章を発表した[25]。
1975年、一連のリブ運動に疲れ果て[26]休養を兼ねて[27]国際婦人年世界会議出席のためにメキシコに渡り、4年半(4年3か月?[28])現地で暮らす。その間、メキシコ人との間に[28]未婚で[27]息子を出産[29]。手に職をつけることを考え、鍼灸学校に入学するために帰国。親から入学金を借り、区の女性福祉資金から学費を借り、生活保護を受けながら3年間通学[30]。1982年、鍼灸学校卒業と同時に新宿御苑前の駅前で開業[31]。後は鍼灸師として活動している[32]。
2007年東京都知事選挙では「アサノと勝とう!女性勝手連」の呼びかけ人として演説し、その立ち上げ集会の締めくくりとして歌も披露した。
2019年7月、彼女を撮ったドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督、90分、共同製作・配給:パンドラ)が完成し、同年10月26日より渋谷ユーロスペースにて上映されている[33][34]。
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 279.
- ^ 「いのちの女たちへ」p96
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 125.
- ^ 「いのちの女たちへ」p94
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 110.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 126.
- ^ 「いのちの女たちへ」p121
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 281.
- ^ 「いのちの女たちへ」p117
- ^ a b 『戦後日本スタディーズ2』, p. 284.
- ^ 『ひとびとの精神史5』p211
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 113.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 214.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 76.
- ^ a b 加納実紀代「侵略=差別と闘うアジア婦人会議と第二波フェミニズム」『紀要論文 女性学研究』第18巻2009年度男女共同参画事業シンポジウム「70年代フェミニズムを検証する : 侵略=差別と闘うアジア婦人会議の軌跡」、大阪府立大学女性学研究センター、アジア婦人会議、2011年3月、149-165頁、doi:10.24729/00004887。
- ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p10
- ^ 井上輝子, 長尾洋子, 船橋邦子「ウーマンリブの思想と運動 : 関連資料の基礎的研究」『東西南北』第2006巻、和光大学総合文化研究所、2006年1月、134-158頁、CRID 1050001338313796096。
- ^ 上野千鶴子. “上野講演 ウーマン・リブ”. 国際基督教大学ジェンダー研究センター. 2023年7月25日閲覧。
- ^ “「強い女」男社会を告発 第38回 リブ女の解放宣言 性を公然と議論、風当たりも強く”. 日本経済新聞 (2014年5月18日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ 上野 2015, p. 189-190.
- ^ 『明日はいきていないかもしれない…という自由』p5
- ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p9
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 287.
- ^ 『インパクション 73号:特集リブ20年』p42
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 286-289.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 38.
- ^ a b 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 165
- ^ a b 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 143
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 23.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 91.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 135.
- ^ a b 『ひとびとの精神史5』p209
- ^ この星は、私の星じゃない
- ^ ユーロスペース
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 74.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 112.
- ^ a b 『ひとびとの精神史5』p224
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 285.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 120.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 171.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 119.
- ^ 『ひとびとの精神史5』p228
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 59.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 94.
- ^ a b 『戦後日本スタディーズ2』, p. 304.
- ^ 『ひとびとの精神史5』p229
- ^ 『戦後日本スタディーズ2』, p. 313.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 177,238.
- ^ 『明日は生きてないかもしれない……という自由』, p. 96,103,123.
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