弥生時代 人々の生活

弥生時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/27 15:00 UTC 版)

人々の生活

水田農耕

登呂遺跡(2012年7月15日撮影)

日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてからお米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、明治11年大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる[19]

では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。収穫量は多いとは言えない。一日あたりの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった[20]。デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた。[21]

家畜利用

弥生時代には水田農耕が行われるが、中国大陸における農耕がブタウマウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた[22]。これに対し、1988年1989年大分県大分市の下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した[23]。イノシシ類頭蓋骨に関しては西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ[24]。また、1992年には愛知県朝日遺跡で出土したニワトリ中足骨が出土している[25]

弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている[26]

弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている[27]2000年の小澤智生による分析では12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された[28]2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている[29]。なお、石黒らは加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している[30]

また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された[31]

狩猟・貝塚

道具類

弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器木器青銅器鉄器土器などに分けることができる。

石器

石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。打製石器は、石鏃スクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。 石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器

青銅器は大陸から北部九州に伝えられた。 北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。また、鏡も弥生時代前期末に渡来した。中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末 - 中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。 一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

鉄器

鉄器の初現は弥生時代早期とされ、弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。

土器

土器は、弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。弥生土器の初めは、板付Ⅰ式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器である。縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。

土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。 最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別して、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。

木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具にはを塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

集落

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものに、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。

弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。 この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布しており、韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越すると、一部に隅丸方形のものが見られるが、弥生時代後期に入ると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化する。その後、次第に長方形へと統一されていく。

このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布すると、また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。

弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。 平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。 また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。

弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。

中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が現れ、これが主要な倉庫の形態となる。

墓制

弥生時代の墓制を示す用語に、支石墓墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓土壙墓木棺墓石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。

甕棺墓は、北部九州弥生時代前 - 中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立する。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約100年後であり、半島から伝来したとは考えにくい。その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着するとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的であるが、このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓・箱式石棺墓などに取って代わられ、糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。主たる分布域は北部九州地域でも筑前筑後肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。

木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがあり、これが被葬者の[出自]集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用され、特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。弥生時代後期にはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期 - 前期前半期に特徴的に認められる。

土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。縄文時代の土壙墓と弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。

中国との通交

中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている[32]。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある[33]

稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている[34]

また近年、渡来系弥生人のDNAとお酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている[35]

弥生時代の開始についてはかつて中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあったが、弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいはからへの政変に関連付ける考えが検討されるようになった。

中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。

後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。

三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。

中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。




  1. ^ 2005年7月20日読売新聞、西谷正(九州大名誉教授;考古学)の論など
  2. ^ 「2005年02月19日読売新聞」稲のプラント・オパールが見つかったことは縄文前期の稲の栽培の証拠となるもの(高橋護・元ノートルダム清心女子大考古学教授)
  3. ^ 新聞「農民」2002.3.11
  4. ^ 2005年7月17日朝日新聞プラントオパールの発見により少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実となった(考古学者;山崎純男)
  5. ^ なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっている
  6. ^ 弥生人 夫婦・女の子・イヌ - 国立科学博物館
  7. ^ 岡山市中溝遺跡では、灌漑用の水路や溝、井堰なども見つかっていている。狩野久「吉備の国づくり」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社 2000年 16ページ
  8. ^ 東北で最初で最北端の弥生時代中期の水田跡、広大な小区画水田
  9. ^ 一木絵理:日本における縄文海進の海域環境と人間活動 [http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/52850/7/K-03581_7.pdf 第4章 地域研究からみた縄文海進像] (PDF)
  10. ^ 東京低地における「弥生の小海退」の発見 産業技術総合研究所 産総研 TODAY 2015.2 VOL.15-2 (PDF)
  11. ^ 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。(『歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代-AMS年代測定法の現状と可能性-AMS年代測定法の現状と可能性 -』)。
  12. ^ 中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。
  13. ^ 翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は太伯文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。
  14. ^ 弥生時代の開始年代 - AMS年代測定法の現状と可能性 -参照
  15. ^ 佐原真「日本・世界の戦争の起源」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年
  16. ^ 井上貴央著「青谷の骨の物語」(鳥取市社会教育事業団 2009年3月)
  17. ^ 「国史跡 青谷上寺地遺跡 保存管理計画・整備活用基本計画」 (鳥取県)p.15「古墳時代前期以降の遺構・遺物は激減する。集落の様相が大きく変化した可能性が高い。奈良時代までは掘立柱建物や土坑が散発的に築かれているが、潟湖の規模は縮小し、平野としての地盤が次第に安定していったことにより、その後は周辺も含め現在まで水田として利用されている。」
  18. ^ 中日新聞夕刊の定期掲載「歴史への冒険 考古学のいま」の2013年7月4日付「暴力による不条理な死」より。
  19. ^ 「漠然とではあるが、日本国民は、神代の昔から毎日米を食っていたであろうという観念を持っている前記の調査報告を見て、少なくともここ2,3百年間はそうではなかったらしいということに驚かされ」たと瀬川清子はいう。1957年 『食生活の歴史』講談社
  20. ^ 寺沢薫・寺沢知子 1981年 「弥生時代植物質資料の基礎研究」橿原考古学研究所紀要『考古学論攷』第5冊 佐原真 2005年 「米と日本文化」所収 金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事6 考古学と現代』岩波書店
  21. ^ 奈良時代の水田の100平方メートルあたりの収穫量は、上田50束・8斗4升6合・玄米105.7キログラム、中田40束・6斗7升7合・玄米84.63キログラム、下田30束・5斗8合・玄米63.5キログラム、下々田15束・2斗5升4合・玄米31.75キログラム 沢田吾一 1927年『奈良朝時代民政経済の数的研究』冨山房
  22. ^ 新美(2009)、p.95
  23. ^ 新美(2009)、p.95 - 96
  24. ^ 新美(2009)、p.97
  25. ^ 新美(2009)、p.95
  26. ^ 新美(2009)、p.97
  27. ^ 新美(2009)、p.99
  28. ^ 新美(2009)、p.99
  29. ^ 新美(2009)、p.100
  30. ^ 新美(2009)、p.100
  31. ^ 新美(2009)、p.95
  32. ^ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
  33. ^ 日本人のルーツと Iron Road の接点を求めて
  34. ^ 佐藤洋一郎 『DNAが語る稲作文明』 NHKブックス 1996年7月
  35. ^ 篠田謙一『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』 NHKブックス 2007年2月
  36. ^ a b 渡来系弥生人の頭骨の特徴 国立科学博物館
  37. ^ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
  38. ^ 「なぜ農耕文化は終わったのか」岡村道雄『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年4月
  39. ^ 東アジアと『半島空間』―山東半島と遼東半島 千田 稔 ,宇野 隆夫
  40. ^ 金関の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  41. ^ 今日の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  42. ^ 佐原真「農業の開始と階級社会の形成」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年
  43. ^ 『退化する若者たち-歯が予言する日本人の崩壊-』丸橋賢・著,PHP新書







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