山崎氏
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歴史
家伝によれば宇多天皇の末裔の山崎憲家が宗家にあたる佐々木義賢に仕えて近江国犬上郡山崎城に住して山崎を称するようになったのに始まるという[3]。
憲家の息子山崎片家は六角氏・織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉の時代には2万3000石の摂津国三田領主となった[3]。その嫡男の山崎家盛は慶長5年(1600年)に因幡国若桜藩3万石の藩主となった[1]。その子山崎家治は寛永15年(1638年)に1万石の加増で都合4万石で肥後国富岡藩に転封となり、寛永18年にも1万石加増で都合5万石の讃岐国丸亀藩へ転封される[1]。山崎治頼まで丸亀藩藩主として3代続くが無嗣断絶で改易となった[1]。
しかし最後の藩主山崎治頼の叔父で後見役だった山崎豊治が5000石分知されており、同家が治頼の名跡を継ぎ、讃岐国仁保において5000石を知行。万治元年(1658年)に備中国成羽に転封となる[1]。以降成羽5000石を領する交代寄合として明治維新まで続いた。
幕末維新期の当主山崎治正は王政復古後の明治元年に新田7000石を加えると1万2000石になるとする諸侯昇格請願書を提出。仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)から山崎家は宇多天皇の子孫宇多源氏の家系であるとの口添えがあったことにより、同年5月15日に1万2746石余の諸侯昇格が許され、成羽藩を維新立藩した[2]。明治2年(1869年)に家督を嫡子治祇に譲り、治祇は華族に列せられ[2]、明治4年の廃藩置県まで成羽藩知事を務めた[4]。
明治17年(1884年)の華族令施行で華族が五爵制になると男爵家に列した[2]。
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