大嶺炭田
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月産7万トン計画と山陽無煙炭鉱の全盛期
深部開発による月産7万トン計画
山陽無煙炭鉱では1955年(昭和30年)度に、石炭の産出量が戦前の最高記録を突破した。当時、練炭はこれまで多く用いられてきた薪や炭などより安価な一般家庭用の燃料として人気が高く、年に10パーセントから15パーセント、生産量が伸びていた。この傾向はしばらく続くものと考えられており、主として練炭の原料として出荷されていた山陽無煙炭鉱の無煙炭の更なる増産計画が立てられることになった[176]。
また、山陽無煙炭鉱での採炭はより深部の石炭を採掘していかねばならない状況となっていた。旺盛な練炭需要に対応するために増産していくのならば、より深部の開発は不可欠であった。その上1955年(昭和30年)には石炭鉱業合理化法が施行されており、炭価の引き下げが要請されるようになっていた。そこで1956年(昭和31年)から、深部開発計画の立案が進められ、1957年(昭和32年)1月には山陽無煙炭鉱の所長から深部開発計画が公式に発表された。この計画では炭鉱の設備増強と合理化によって1959年(昭和34年)下期を目標に月産7万トンを達成し、また生産性も高めていくとしていた[177]。
組合からの同意も取り付け、1957年(昭和32年)にスタートした7万トン計画では、深部から石炭を採掘するために第6、第7、第9の3本の斜坑を新たに設ける計画であった。しかし第7斜坑は炭層が変動帯に遮られ、第9斜坑は石炭の品位が低かったため、開発を中止せざるを得なかった。そこで第6斜坑とともに、これまで石炭を産出していた桃ノ木坑の増産などでカバーすることになった[178]。
深部から石炭を効率よく採掘していくためには、各種の機械化とともに合理化が不可欠であった。深部開発による7万トン計画では
- 採炭の機械化を進めるために、ドイツからホーベルを導入してホーベル採炭を行う。
- 採掘した石炭を坑内から運搬するためにイギリスからケーブルベルトコンベアを導入し、運炭の幹線運搬設備とする。
- 深部の採炭現場までの人員輸送のスピードアップのため、人車設備を延長、増強する。
- 石炭産出の増大に伴う資材運搬等の設備強化
が、主な機械化、合理化工事であった。結局、1959年(昭和34年)12月末のケーブルベルトコンベアの完成によって、総費用16億円、延べ人員17万人を投じた深部開発工事は完成した[179]。
また、石炭の産出量増大に伴って選炭設備の増強が進められた。更には産出された石炭を貨車に積み込むための引込線の増設、鉄筋コンクリート造の1000トン積み込みポケットの建設といった設備の増強も行われた。このような中で、海軍炭鉱時代から大嶺炭田のシンボルとして親しまれてきた桃ノ木から麦川への索道は1961年(昭和36年)9月に廃止となった[180]。
山陽無煙炭鉱の全盛期
深部開発による月産7万トン計画の進行中、1955年(昭和30年)度の年産約44万トンから深部開発工事が完成した1959年(昭和34年)度には66万トンあまりと、 産出量は順調に伸びていった。その後も出炭量は拡大を続け、1961年(昭和36年)3月には月産7万トンに到達し、1964年(昭和39年)12月、8万トンの大台に達した。そして1965年(昭和40年)12月、8万3000トンの頂点に達する。1965年(昭和40年)度、年産も86万トンあまりと最高を記録した。当時出炭量は毎月コンスタントに7万トンを超え、また生産性も向上し、山陽無煙炭鉱は全盛期を迎えた[181]。
昭和30年代、全盛期を迎えた山陽無煙炭鉱では、戦前期に引き続き社宅は家賃、修繕費無料、水道、浴場も無料、燃料である薪と石炭はもちろん無料で供給された[† 10]。電気代は有料であるものの低く抑えられ、畳代には補助が出され、散髪も市価の約7割と手厚い福利厚生がなされていた[182]。当時、山陽無煙炭鉱への入社希望者は多かったものの、合理化によって基本的に人員増を行わない方針であったため、1961年(昭和36年)頃までは募集はあまり行わなれず、条件が極めて良い人物でなければ採用されることはなかった[183]。
豊浦社宅に隣接する商店街は、昭和30年代には82軒の店舗が軒を連ね、全盛期を迎えていた。1957年(昭和32年)頃からはテレビが出回り始め、最初は電器屋に陳列されていたテレビに大勢の人々が群がっていた。しかし高価な商品であり庶民にとってなかなか手が出なかったテレビが、あっという間に社宅全体に広まっていった。電器屋は仕入れた先からテレビが売れていき、うれしい悲鳴をあげていた。当時、テレビ普及率が日本一であると豊浦社宅が報道されたと伝えられている[184]。
山陽無煙炭鉱の全盛期は、文化、スポーツ活動の全盛期でもあった。映画や楽劇団の活動はテレビの普及により衰退していくが、文化系では俳句同好会である「青ぐみ句会」、短歌同好会、川柳同好会、謡曲同好会、盆栽同好会、そして女子コーラス同好会などが活躍をしていた。また囲碁や将棋を楽しむ人々も多かった。俳句同好会の青ぐみ句会は、炭鉱が3交代制の勤務体系を取っており、しかも職場が坑内と坑外と大別される上に地域的にも分かれていたため、句会を開催したところでどうしてもメンバーの3分の1は出席できないため、定例の句会は開催せず、句会報中心の活動にするといった運営上の工夫をして、最盛期には40名を超える会員を集め、ヤマの俳句会として各新聞でも紹介された。なお句会は大明炭鉱にもあって、一時期注目されたこともあった[185]。
スポーツ活動も昭和30年代、全盛期を迎えていた。水泳部、陸上部は部員が国民体育大会を始めとする各種大会で好成績を収め、また軟式テニス部、卓球部、ラグビー部も各大会で活躍した。軟式野球部は昭和20年代後半から30年代にかけては近隣で最強と言われ、やはり各大会で活躍を見せた。そして水泳、軟式テニス、ラグビーなどでは、山陽無煙炭鉱の部員たちが地元の中、高校生に対しても熱心に指導を行った。そして美祢市体育協会の発足について、山陽無煙炭鉱の軟式テニス部の指導者が尽力するなど、全盛期の山陽無煙炭鉱のスポーツ活動は地域のスポーツ振興にも大いに貢献した[186]。
1954年(昭和29年)に復活したボーイスカウト活動は昭和30年代に入っても活発であった。1957年(昭和32年)には社宅に住む主婦たちが主導してガールスカウトが発足する。そして年少者から一貫したスカウト教育を行う必要性が認識されてきたため、子供会とタイアップする形で1965年(昭和40年)にカブスカウトが発足した[187]。そして1957年(昭和32年)、修養団山陽支部が結成され、明るい社会建設をモットーに、各種の講習会、研修会、奉仕活動といった修養団活動を行った[188]。
1957年(昭和32年)から1961年(昭和36年)にかけて、日本各地の炭鉱から炭鉱技術の習得と日独親善を目的として、西ドイツのルール地方のルール炭田に若手鉱員を派遣することになった。山陽無煙炭鉱でも計4名の鉱員が派遣され、派遣鉱員のうち1名が事故で殉職する不幸に見舞われたが、残りの3名は西ドイツで炭鉱技術を習得し帰国した[189]。
衰退の影
山陽無煙炭鉱が深部開発による月産7万トン体制の確立に成功したため、山口県産の無煙炭の全国シェアは1955年(昭和30年)度は約53パーセントであったものが、1965年(昭和40年)度には7割を超えるようになった。しかし最盛期を迎えた山陽無煙炭鉱に対して、昭和30年代に入ると大嶺炭田の中小炭鉱の多くは大手炭鉱のように機械化による合理化を行うことが出来ず、また採炭場所が深部になっていく不利な条件を克服できなくなり萩嶺炭鉱、神田炭鉱、美豊炭鉱などが閉山に追い込まれ、1960年(昭和35年)度末には5炭鉱に減少した[190]。
昭和30年代後半になると山陽無煙炭鉱にも衰退の影が忍び寄ってきた。当初、月産7万トン計画立案時は深部開発は第6、第7、第9の3つの斜坑を軸とする予定であった。しかし第7、第9斜坑は開発が中止されたため、第6斜坑が増産を一手に担う形となってしまった。その結果、第6斜坑地区の深部開発は急速に進行し、しかも南部は褶曲帯の影響で採炭が困難であることが判明した。増産計画の根幹をなす深部からの採炭が期待できなくなるという予想外の事態に直面し、1962年(昭和37年)以降、様々な対応を余儀なくされた[191]。
まず行ったのが鉱区の南北方面の開発であった。第6斜坑からの出炭に陰りが見え始めた1962年(昭和37年)に南部鉱区、そして1964年(昭和39年)には北部鉱区の開発を本格化させた。さらに露頭部分の石炭採掘を行うため、1964年(昭和39年)7月からは草井川で露天掘りを開始した[192]。
続いてこれまで炭層が硬い上にボタ(捨石)が多いため、経済的に引き合わないと判断され手つかずであった猪ノ木層の石炭採掘に取り組むことになった。猪ノ木層の採炭方法として採用されたのは水力採炭であった。この採炭法は一種の水鉄砲を用い、ノズルから高圧の水を炭層に噴射することによって採炭を行うもので、猪ノ木層の上下の地層が硬く、炭層の傾斜も問題なく、また水も十分に供給できることが採用の理由であった。水力採炭は1961年(昭和36年)、山陽無煙炭鉱の幹部がソ連に炭鉱技術の視察に行った後に導入が検討されるようになり、先行導入されていた北海道内の炭鉱の視察、そして山陽無煙炭鉱内で試験を繰り返した後、1965年(昭和40年)10月から操業を開始した[193]。
また採掘される石炭の質にも変化が見え始めていた。大嶺炭田で採掘される無煙炭は粒度が細かくなるほど品位が高くなるという特徴があり、この特徴を利用して無煙炭の選別にはふるいが用いられてきた。戦後まもなくは1キログラム当たり5500キロカロリーの特粉を、15ミリメートルのふるいで選別していたが、産出量の増大に伴って品位の変動が激しくなり、それに伴ってふるいの目は徐々に細かくなっていった。1964年(昭和39年)に電熱ふるいを採用して4ミリまで細かくしたものの、4ミリメートルのふるいでも品質の保持が難しくなった。ある程度水分を含む石炭粉をこれ以上細かいふるいで選別するのは困難であり、結局、粉炭を風力によって選別する空気選別が研究され、1961年(昭和36年)2月に空気選炭機が運転を開始し、翌1962年(1962年)1月には増設された[194]。
もともとふるい上に残った石炭は水選されていたが、空気選炭機の実用化後も水選は継続された。しかし空気選別の実用化後、水選によって選別された沈殿粉の品位が低下し、販売が難しくなって貯炭が増大し始めた[† 11]。そこで浮遊選鉱を実用化して沈殿粉から高品位の微粉を回収することになった。浮遊選鉱の採用に当たって問題となったのが浮選油の選定であった。山陽無煙炭鉱の無煙炭はそのほとんどが家庭用の練炭原料として出荷されており、製品化された練炭に浮選油が混入することによって煙が出たり臭気を発することがあれば商品価値が著しく低下してしまう。そこで試験を繰り返して高品位の粉炭を回収するために適切である上に、練炭原料として問題が無く、コスト面も考慮して浮選油を選定し、1963年(昭和38年)12月より浮遊選鉱の操業が始まった[195]。また1964年(昭和39年)には、砂鉄と水の混合液である重液を利用して選炭を行う重液サイクロンも稼働を開始して、5000キロカロリーの粉炭回収に使用されるようになった[196]。
このように様々な対応をしながら多くの課題に対応していた山陽無煙炭鉱であったが、1964年(昭和39年)頃からより困難な事態が降りかかってきた。産出される無煙炭の品位が急速に低下してきたのである。もともと坑内の機械化の進展や稼行炭層の劣化により品位は徐々に低下してきていたが、それが顕著になって山陽無煙炭鉱の主力商品である1キログラム当たり5500キロカロリーの特粉の品位保持が難しくなってきた。そこでやむを得ず、高品位である水選による特選粉を混炭して特粉の品質保持を図るようになった[197]。
炭鉱をめぐる社会環境も変化しつつあった。深部開発に成功した山陽無煙炭鉱は政府による石炭鉱業調査会の調査によって、炭鉱のスクラップアンドビルド政策においてビルド鉱に選定されたものの、更なる合理化、機械化によって生産性をアップしていくことを求められていた。そのため会社や労働組合の幹部は1963年(昭和38年)後半期より全国各地の炭鉱の視察を繰り返し、視察結果を山陽無煙炭鉱の状況改善に生かしていくようになった。そして大嶺炭田の主力出荷先である練炭業界にも大きな曲がり角がやってきていた。取り扱いが簡単かつ練炭よりも清潔である灯油、そして都市ガス、プロパンガスが家庭用燃料として急速に普及し始めたのである。その結果、練炭の生産高は1962年(昭和37年)を頂点として低下し始める。また海外からの安価で品質も高い無煙炭の輸入も増加していた[198]。
炭鉱を巡る情勢の悪化に敏感に反応したのが従業員たちであった。これまで山陽無煙炭鉱では条件が極めて良い人物でなければ採用されない、いわば買い手市場であったものが、1962年(昭和37年)頃からは若年層の職員を中心に、退職して他の産業に転職していく者が相次ぐようになったのである。山陽無煙炭鉱は一転して人員の補充が極めて大きな課題となり、1964年(昭和39年)頃以降、従業員の募集に本腰を入れるようになった。若手職員の相次ぐ離職は、山陽無煙炭鉱の特徴であった盛んな文化、スポーツ活動にも大きな影響を及ぼした。俳句同好会青ぐみの句会報、「青ぐみ」が1962年(昭和37年)に終刊になるなど、この頃以降、文化、スポーツ活動は徐々に縮小していくことになる[199]。
注釈
- ^ 大嶺炭田の範囲については各参考文献で数値が異なる。ここでは最新の日本地質学会(2009)の記述に基づいて記載する。
- ^ 桃木層、そして麻生層の構成についての記述は各参考文献で異なる。ここでは最新の日本地質学会(2009)の記述に基づいて記載する。
- ^ 「大嶺炭山(上)」『防長新聞』1904年4月24日付、第2面 によれば、長門無煙炭鉱株式会社の株式は一株50円の株式を一万株、つまり総額50万円の株式を募集した。
- ^ この山本権兵衛海軍大臣の答弁時、旅順はまだ陥落していなかった。
- ^ このルートは小月から西市までは廃止された長門鉄道のルートである。
- ^ 鉄道省(1921)p.388によれば、1905年(明治38年)10月12日の命令書改正に伴い、輸送量が15万トンに届かなかった場合は、補助金ではなく割増運賃を支払う方式となった
- ^ 「石炭輸送開始」『防長新聞』1906年2月10日付、第2面では、2月10日より石炭輸送を開始すると報道している。ここでは山陽鉄道大嶺支線の運営母体である山陽鉄道株式会社の営業報告書に基づく記述とする。
- ^ 美祢市郷土文化研究会(1972a)pp.7-8によれば、櫨ケ谷坑から麦川までの索道は輸送効率が悪かったため、後にエンドレスロープ(巻ロープ)に変更されたという。
- ^ 最盛期の豊浦社宅の人口については、山口県教育委員会(1971)p.103や美祢市史編集委員会(1982)p.781では約1万人としている。ここでは直近の美祢市教育委員会(2000)p.139、西村(2009)p.29の記述に従い、5600名とする。
- ^ 美祢市教育委員会(2000)p.93などによれば、会社から無料で供給される無煙炭を燃料として使用する際は、着火時に薪が必要であった。
- ^ 宇部興産株式会社山陽無煙鉱業所(1962)p.40、中安(1962)p.11によれば、大嶺炭田の微粉が多い無煙炭はすべてを水選など湿式選炭を行うことは困難である上に、濡れた無煙炭の微粉を乾燥するためには多額の費用を要し、また湿式選炭で回収された沈殿微粉は市価が安いため、ふるいによる選別が行われてきた。
出典
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