加役方人足寄場 沿革

加役方人足寄場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 23:48 UTC 版)

沿革

人足寄場の設置以前には、無宿者の隔離および更生対策として佐渡金山への水替人足の制度があった。しかし、水替人足は非常に厳しい労役を強いられるものであり、更生というより懲罰という側面が強かった。そのため、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設を作ることを火付盗賊改方である長谷川宣以(長谷川平蔵)が松平定信に提案し、人足寄場が設置された[2]。 石川島の人足寄場は幕末まで存続するが、明治維新によって石川島徒場(とじょう)となった。 何度か改称した後、1877(明治10)年に警視庁管轄下の石川島監獄署となり、現在と同じような懲役刑が行われる施設ができた。その後、東京の都市化が進むと、石川島から巣鴨に移転。巣鴨監獄・巣鴨刑務所は後に巣鴨拘置所となった。東京裁判で有名な巣鴨プリズンである。

巣鴨刑務所はさらに府中市へ移転し、これが現在の府中刑務所となる。現在の巣鴨刑務所跡地には池袋サンシャインシティがある。

“江戸幕府初の”、時には“世界初の”更生計画・職業訓練専用施設と紹介されることがあるが、これより先の安永9年(1780年)に時の江戸南町奉行牧野成賢の献策により、深川茂森町に「無宿養育所」が設立されている。

この養育所は生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保のころより住居も確保できない無宿者達が増加の一途を辿っており、犯罪の根源ともなっていた。彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直すための援助をすることによる犯罪の抑止が、養育所設置の目的であり趣旨であった。この試みはしかし、定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、この養育所の体制のいわば仕切り直しが人足寄場であり、手本・先駆けとなった。


  1. ^ 『日本史用語大辞典: 用語編』171頁
  2. ^ 長谷川の進言で設けられたものとしては他にも江戸から15里ほど離れた幕府直轄地常陸国筑波郡上郷村の職業訓練施設がある。
  3. ^ 平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』創文社、1960年1月1日、1059-1060頁。doi:10.11501/3033456ISBN 4423740117NCID BN02799356 


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