ラス・アルラ マンガッシャの後見者

ラス・アルラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 20:08 UTC 版)

マンガッシャの後見者

マンガッシャ(1868-1906)

ヨハンネスには実子がいなかったが、かつての内乱期には皇帝の戦死が度々あったため、戦争の前にヨハンネスは後継者をすでに定めていた。後継者は義理の妹の息子マンガッシャであり、当時は25歳だったがすでに戦いを指揮するデジャスマッチ(ラスの一段下の太守、伯爵に相当)についていた。ヨハンネスの側近への遺言は「マンガッシャを頼む[13]」であり、ラス・アルラもヨハンネスに向けた忠誠を同様にマンガッシャにも捧げた[14]。だが若年のマンガッシャでは、ショワのみならず妻のタイトゥを通じてティグレにも影響力を持ち始めたメネリクに政略でも軍事でも対抗できなかった。それどころか近代兵器で武装したメネリクの軍への対抗から、かつてメネリクがしたようにマンガッシャはイタリアに接近しようとする。その外交を受け持ったのはラス・アルラであり、ドガリの経緯からイタリアを心底嫌い抜いていたにもかかわらず、友好関係の樹立に邁進した。しかしこれは却って諸侯の支持を失わせただけに終わり、マンガッシャは孤立する。対立が始まって数年のうちに、メネリクの切り崩しによってマンガッシャを支持する大物は、ティグレでさえラス・アルラただ一人になっていた[14]

1894年、ついにラス・アルラはメネリクに対して敗北を受け入れる。アルラはマンガッシャとともにメネリクの元に跪き、首に石の重りを吊すことで服従の姿勢を示した[4]。メネリクはかつてヨハンネスとの勢力争いに破れ、同様に上半身裸にさせられた上で罪人の首枷をつけ跪かされた経緯があったが二人を許した。マンガッシャはティグレの有力者として据え置かれ、ラス・アルラに対しては激烈に歓迎して自軍に迎えた。これはイタリアとの再度の対決が確実になった状況を踏まえてのもので、特にドガリの戦歴を持つラス・アルラは、軍事的にも政治的にも重要な存在だった[4]

1896年3月1日、エチオピア軍は侵入する20,000人を超えるイタリア軍と、ティグレ州のアドワで激突する。このアドワの戦いに対し、皇帝となったメネリク2世、その妻タイトゥが軍を率いて出撃し、マンガッシャらラス(諸侯)も結束して対イタリア戦に参加した。69歳になっていたラス・アルラもアドワに参戦している。エチオピア軍は陸軍大臣ムルゲタの指揮を受け、多大な犠牲を払いながらも攻勢を続けてイタリア軍を敗走させた。イタリア軍は3つの旅団のうち2つが戦闘不能となる大敗を喫し、現状維持[15]での講和を結ぶしかなかった[16]

アドワの戦いの一年後の1897年、ラス・アルラは70歳で没した[4]。マンガッシャを後継者とするヨハンネスの遺言を守ることはできなかったが、諸外国からエチオピア帝国を守る先帝の意思は、その長年の敵対者とともに果たした上での死だった。


  1. ^ Shinn, p. 25
  2. ^ Augustus B. Wylde, Modern Abyssinia (London: Methuen, 1901), p. 29
  3. ^ a b c 山田(2013,165)
  4. ^ a b c d e 山田(2013,168)
  5. ^ 岡倉 (1999:145)
  6. ^ 岡倉 (1999:86)
  7. ^ a b c d e 山田(2013,166)
  8. ^ 岡倉 (1999:101)
  9. ^ 岡倉 (1999:96)
  10. ^ 岡倉 (1999:100)
  11. ^ エチオピアを非人道的な文明化されてない未開の部族と扱うことで、文明の光を広げる自らの正当性を主張するこの手法は、後に国際連盟においてもイタリアの常套手段となる。
  12. ^ 岡倉 (1999:102)
  13. ^ 岡倉 (1987:78)
  14. ^ a b 山田(2013,167)
  15. ^ エリトリア、南ソマリアの維持
  16. ^ 岡倉 (1999:105)


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