ヨハネの黙示録 解釈

ヨハネの黙示録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 20:45 UTC 版)

解釈

ベリー公のいとも豪華なる時祷書Très Riches Heures du Duc de Berry)』に描かれた、パトモス島の福音書記者ヨハネの図。王座の周りを四人の熾天使(セラフィム)が囲み、純粋をあらわす白いローブに身を包む24人の長老が両側に座る。彼らは金の冠を頭に被っている。黙示録では24人の長老の正体を明示してはいないが、伝統的にヤコブの12人の息子とイエスの12人の使徒とされていた。

ヨハネの黙示録には【ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした(1-2)】【イエスの証しは預言の霊なのだ(19-10)】と記されている。

この言葉は福音書の【人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない(マタイ12-32)】【父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊(ヨハネ14-26)】と呼応しており、ヨハネの黙示録自体が福音書に記されている聖霊であることを示している。

また、解釈をしようとすると【これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災いをその者に付け加える(22-18)】と記されており、簡単に解釈するわけにもいかない。しかし、この言葉は、逆に、この書に書かれている災いを自ら受ける覚悟を持てば、解釈も許されると言う意味ともなる。では、この災いとは何か……個人として受ける災いは、火と硫黄の燃える池(21-8)であり、ここに入るのを覚悟しさえすれば、解釈することも可能である。

つまり、解釈するためには、実際にこの火と硫黄の燃える池に飛び込むしかない。

『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある。

預言書としての解釈

この見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方である。

マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方である。この立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられている[1][2][3]

文学類型(ジャンル)としての解釈

この見方では、『黙示録』は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想とそれにしたがって書かれた『ダニエル書』などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると解釈する。この見方が18世紀以降、自由主義神学高等批評を受け入れる研究者の中では主流となっている。この解釈に沿ってみていくと、『黙示録』が『ダニエル書』などの一連の黙示文学と同じ「幻のうちに受ける啓示」、「歴史区分の提示」、「神の完全な支配の実現」などのパターンに沿って書かれているということがよくわかるとされる(「黙示」の項も参照のこと)。この立場の学者は、レンスキ、ナイルズである。ルドルフ・ブルトマン非神話化では、イエス・キリストの来臨はすでに起こったこととされている[4]

普遍的テーマのイメージ化としての解釈

20世紀以降、『黙示録』を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化した作品という解釈が現れた。

他にも著者ヨハネが死に瀕した苦痛を和らげるため天然麻薬であるニガヨモギを吸い、それによって見た幻覚であるという説(麻薬幻覚説)もあるが、この説は正式な学問的確証に基づいたものでないため、聖書学者たちに受け入れられたことはない。

幻覚説を除けば、三つの説はいずれも排他的なものでなく、どれか一つをとれば他の二つは間違いであるといった性質のものではないとする立場もあるが、一般に現代のリベラルな教派の間では、第二の「文学類型」的解釈が主流で未来に起こることが預言として与えられていると考える者は少ない。

過去主義者

過去主義者の解釈では『黙示録』が1世紀の終わりに起きた大迫害を預言していたという見方があるが、ヨハネがこの書を書いたのが1世紀の後半だと考える立場からは当然に支持されない。

過去主義者の体系的記述はイエズス会修道士アルカザールのもので、宗教改革者がローマ・カトリックを大淫婦バビロンとみなしたため、それを否定するためにあみだされたものであるが、その後に預言を否定するリベラルなウィリアム・ラムゼー、シェイラー・マシューズによって主張されている[5]

キリスト教の教理

ただし、プロテスタント信仰告白では、ウェストミンスター信仰告白にも、未来に起こることがらである再臨最後の審判の根拠の聖句としてあげられている。今日でも歴史的なキリスト教終末論の理解からは、使徒ヨハネが神の啓示を受けたと信じられている[6]

表象(イメージ)の解釈

黙示録の中にはさまざまなイメージが現れ、歴史の中で多くの芸術家にモチーフを提供してきた(『黙示録』をテーマとする芸術としてはアルブレヒト・デューラーの一連の木版画などが有名である)。

「文学類型」的解釈の立場に立つ学者たちは、『黙示録』のイメージを歴史的事実や、歴史上の人物などにあてはめることで解釈しようとしてきた。たとえば13章にあらわれる竜に権威を与えられた「海からの獣」は、強大な力を持ってキリスト教に対抗するものということで、ローマ帝国もしくはローマ皇帝であると考えられる。その獣が持つ七つの頭は、アウグストゥス以来の七人のローマ皇帝にあてはめて解釈される。

13章18節にあらわれる第二の獣に従うものに押された「六百六十六」という数字は数秘術ゲマトリアで「獣の数字」と呼ばれ、皇帝ネロ(ネロン・ケサル)を表すとよく言われるが、これに対しては数が合わないという異論もある。写本によっては六百十六と書かれているものがあることは古くから知られている。

また、16章16節にあらわれる「ハルマゲドン」という言葉に関しては、本来の意味が知られずにおどろおどろしいイメージだけが独り歩きしている感があるが、「メギドの丘」という解釈が主流である。黙示録の中では神との戦いに備えて汚れた霊が王たちを集める場所をさす名称である。メギドは北イスラエルの地名で戦略上の要衝であったため、古来より幾度も決戦の地となった。このことから「メギドの丘」という言葉がこの箇所で用いられたと考えられている。


  1. ^ ウェストミンスター信仰告白
  2. ^ ウィリアム・ヘンドリクセン『死後と終末』鈴木英昭 訳、つのぶえ社、1983年、[要ページ番号] 
  3. ^ 尾山令仁『聖書の教理』羊群社、1986年、[要ページ番号]ISBN 978-4-8970-2022-8 
  4. ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実 訳、教文館、2002年、[要ページ番号]ISBN 978-4-7642-7203-3 
  5. ^ メリル・テニイ『ヨハネの黙示録』有賀寿 訳、聖書図書刊行会、1972年10月、177頁。ISBN 978-4-7912-0020-7 
  6. ^ 岡山英雄『子羊の王国』いのちのことば社、2002年、[要ページ番号]ISBN 978-4-2640-1991-6 





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