モンゴルの高麗侵攻 第六次侵攻

モンゴルの高麗侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 21:11 UTC 版)

第六次侵攻

モンケによる江華島朝廷への出陸要求

1251年10月、モンケはモンゴル帝国第4代皇帝に即位すると、自らの即位を通告する使者として将困、洪高伊ら40人を送り、詔を発して国王高宗に「出陸」(江華島からの退去と半島本土への帰還)および「親朝」(自らのモンゴル宮廷への出頭)を求めた。これを受けた高麗宮廷は朝議で紛糾し、太子を代わりに遣わして親朝するか、あるいは高宗は老病のため親朝できないことを伝え、これを詰問された場合は太子を代わりに遣わして親朝させれば良いのではないか、という意見が出た。

1252年正月にモンゴル側に李峴を使者として送り出したが、7月にはモンゴル側から使者として多可・阿土ら37人が来て国王の出陸について審問してきた。一旦は使者をモンゴル側に送って近く出陸すると答えた。モンゴル側はこれを言質として再度使者をよこすと国王高宗の出陸を要求した。使者たちはモンケの命令で高麗からの使者李峴がモンゴル宮廷に留め置かれたことを告げ、「国王が陸でお前たち使者を迎えるならば、たとえ人々がまだ出て来なくともそれで良しとする。もしそうでなければ直ちに帰還せよ。お前たちが来るのを待って(高麗に)兵を発して討伐させる」というモンケから使者たちに課された指令を伝えた[9]。モンゴル側は高麗宮廷が未だ江華島に立て籠って違約を続けている事に対して、旧都の開京への帰還を求めた。

高麗朝廷の動き

高宗が執政者の崔沆に対策を問うたところ、「国王は軽々しく江華島より出るべきではありません」と答えた。廷臣たちはモンゴル側の出陸の要求に従うべきだと考えていたが、崔沆がこれを拒絶すべきとの意向を示したため、高宗共々これに従ったという。高宗は代わりに新安公佺に使者たちを迎えさせるよう遣わし国王の出陸は行われなかった。この高麗の違約は使者の多可らを怒らせ、モンゴルの使者は帰還した[10]

1252年12月、モンケの命を受けた諸王イェグ(也古、ジョチ・カサルの長男)が軍をともない併せて質子(トルガク)としてモンゴル宮廷に出仕していた永寧公綧を使者として寄越して来た。モンゴル軍はその間、東真国のあった地域に進駐した。

第六次侵攻と停戦

1253年5月にはイェグは先年高麗に使者として来た阿豆ら16人を改めて使者として送って来たが、進展は無かった。ついに、その国王が国外へ旅するなど先例がないとして拒絶[11]。モンケはイェグに、高麗の軍を統治するよう命じ、モンケ宮廷の高麗人の勧めにより1253年7月に侵攻を開始した。イェグはアムカン(阿母侃)を伴い、高麗に降伏を要求。高麗はこれを拒絶するが、モンゴルへの抵抗は諦め、山城や島嶼部に農民を集めはじめた。

またジャライルタイ・コルチ(札剌児帯)はモンゴルに降伏した高麗の将とともに国土を蹂躙した。イェグの使者が高宗の宮廷に遣わされると、高宗はついに本土への帰還と、第2王子の安慶公王淐を人質に出すことを承諾。高麗の降伏を受け、モンゴルは1254年1月に停戦に応じた[12]。しかし、高麗朝廷の上層部は江華島に残留していた。

第五次侵攻では、捕虜となった者が20万6千800余人、死者は「骸骨野を蔽う」ほどであったという[13]


  1. ^ 回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。
  2. ^ 杉山1996、107頁。村井1999、100頁。
  3. ^ 『元史高麗伝』「[太祖]十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,尋以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山朮等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。」
  4. ^ 『元史』巻2 太宗本紀「[太宗三年秋八月]是月、以高麗殺使者、命撒禮塔率師討之、取四十餘城。」
  5. ^ 『元史』巻208 高麗伝「[太祖十九年]十二月、又使焉、盜殺之于途、自是連七歳絶信使矣。 太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有來師者。」
  6. ^ 『元史』巻208 高麗伝「太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戶、旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡、又使阿兒禿福源抵王京、招其主王皞遣其弟懷安公王侹請和、許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之、遂班師。」
  7. ^ 世界全史、312頁。
  8. ^ 村井1999、14頁。
  9. ^ 『高麗史』巻129 列伝43 叛逆3 崔忠献「[高宗]三十九年、李峴奉使如蒙古、沆謂峴曰:『彼若問出陸、宜荅以今年六月。(中略)帝乃留峴、遂遣多可土等密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐…』」
  10. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗三十九年秋七月戊戌(十六日)条「戊戌、蒙古使多可阿土等三十七人來帝密勅多可等曰:「汝到彼國、王出迎于陸、則雖百姓未出、猶可也。不然則待、汝來當發兵致討。」多可等至王、遣新安公佺、出迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。」/『高麗史節要』巻17 高宗三十九年七月条「秋七月、蒙古遣多可阿土等三十七人、來審出陸之状。初李峴之如蒙古也。崔沆謂曰『若詰出陸、宜荅以今年六月』。乃出峴未至蒙古、東亰路官人阿母侃通事洪福源等請發兵伐之。帝已許之及峴至。帝問『爾國出陸否』。對如沆言。帝又問『留爾等別遣使審視。否則如何』。對曰『臣於正月發程、已於昇天府白馬山營宮室城郭。臣敢妄對』。對帝乃留峴。遂遣多可土等来密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐』。峴書状官張鎰随多可能来密知之具白王。王以問沆對曰『大駕不宜輕出江』。公卿皆希沆意執不可。王從之遣新安公佺、出江迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。時人謂『沆以淺智誤國大事、蒙兵必至矣』。」
  11. ^ 『高麗史』
  12. ^ 村井1999、105頁。
  13. ^ 関周一 編『日朝関係史』吉川弘文館、2017年2月7日、103-104頁。ISBN 978-4642083089 
  14. ^ 『元史』巻3 憲宗本紀 憲宗三年癸丑春正月条「三年癸丑春正月、汪田哥修治利州、且屯田、蜀人莫敢侵軼。帝獵于怯蹇叉罕之地。諸王也古以怨襲諸王塔剌兒營。帝遂會諸王于斡難河北、賜予甚厚。罷也古征高麗兵、以札剌兒帶為征東元帥。遣必闍別兒哥括斡羅思戸口。」
  15. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗四十一年条「是歳、蒙兵所虜男女、無慮二十萬六千八百餘人、殺戮者不可勝計。所經州郡、皆爲煨燼、自有蒙兵之亂、未有甚於此也。」/同高宗四十二年夏四月条「是月道路始通。兵荒以來、骸骨蔽野、被虜人民逃入京城者、絡繹不絶。都兵馬使、日給米一升救之然死者無筭」 村井1999、105頁。
  16. ^ 村井1999、93-94頁。
  17. ^ 村井1999、106頁。
  18. ^ 『元史』巻4 世祖本紀 中統元年6月 条「高麗國王王倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即來賀即位、以國王封冊、王印及虎符賜之。」/『元史』巻208 高麗伝「(中統元年)六月、倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位、以國王封冊、王印及虎符 賜之。是月、又下詔撫諭之。」、杉山1996、112-113頁。
  19. ^ 『元史高麗伝』
  20. ^ 杉山1996、113-117頁。
  21. ^ 元史高麗伝。杉山1996、114-115頁。
  22. ^ 杉山1996、115-116頁。
  23. ^ 村井1999、111-114頁。
  24. ^ 程尼娜『元代朝鮮半島征東行省研究』
  25. ^ 『征東行省新論』
  26. ^ 元史』巻108 表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
  27. ^ 元史』巻8 世祖本紀5「[至元11年5月]丙申(1274年6月26日)、以皇女忽都魯堅迷失下嫁高麗世子王諶。」/『元史』巻109 表4 諸公主表「高麗公主位:齊國大長公主忽都魯堅迷失、世祖之女、適高麗王諶、即王昛也。」
  28. ^ 『元史』巻91 志41上 百官志7「征東等処行中書省。至元二十年、以征日本国、命高麗王置省、典軍興之務、師還而罷。大特が三年、復立行省、以中国之法治之。既而王言其非便、詔罷行省、従其俗。至治元年復置、以高麗王兼領丞相、得自奏選属官、治瀋陽、統有二府、一司、五道。」
  29. ^ 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』
  30. ^ a b c d e f 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、35頁、ISSN 1346-3810 
  31. ^ 森平雅彦『モンゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応』名古屋大学出版会、2013年11月30日、213頁。ISBN 978-4815807535 
  32. ^ 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、36頁、ISSN 1346-3810 





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