モホリ=ナジ・ラースロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 17:22 UTC 版)
モホリ=ナジ・ラースロー Moholy-Nagy László | |
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生誕 | 1895年7月20日 ハンガリー バーチ・キシュクン県 バーチボルショード |
死没 | 1946年11月24日(51歳没) アメリカ合衆国 イリノイ州 シカゴ |
国籍 | ハンガリー |
この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、インド・ヨーロッパ語族風にラースロー・モホリ=ナジと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名) |
経歴
ハンガリー、バーチ・キシュクン県のバーチボルショード村生まれ。指揮者のゲオルク・ショルティは再従兄弟にあたる。ブダペスト大学で法律を学んだが第一次世界大戦に出征して手に負傷して帰還した。当時の戦友は「彼は詩人であり、壕のなかで詩をつくり、戦争を嫌って泣いていた。手の負傷もおそらく彼の帰還を願う心が、自らつくった行為であろう」と言っている[1]。
その後絵画を研究した立体派や表現派に興味を持ち、前衛雑誌『A Tett』に参加したり、カッシャーク・ラヨシュ(Kassák Lajos 、1887年 - 1967年 [1][2][3])のグループの前衛雑誌『MA』に参加する[1]などして、すでに構成主義的な芸術表現を志向していた(ハンガリー・アヴァンギャルド)。
政治的流動化(秋薔薇革命ハンガリー革命ハンガリー・ルーマニア戦争)のためにドイツに亡命した後は美術家として数年活動したのちヴァルター・グロピウスと出会った。1919年バウハウスに招聘され[要出典]、1923年教授となり、写真を中心に建築、工芸、絵画、彫刻、舞台装置など広い分野にわたって制作活動を行なった。写真やタイポグラフィを積極的に基礎教育に取り入れるなど革新的なアイデアを用い、バウハウスの教育方針に影響を与えた。バウハウス叢書の1冊として1925年に刊行された『絵画・写真・映画』(Malerei, Fotografie, Film)は美術界に大きな影響を残した。1928年にバウハウスを辞し、ベルリンに自分自身のデザイン・スタジオを開設した。
1929年2月には、ベルリンのクロル歌劇場でオッフェンバック作曲の歌劇『ホフマン物語』(指揮:クレンペラー)の舞台美術を担当した[2]。
1933年、ナチスが政権を獲得したため、その後はアムステルダム、ロンドンで美術評論やデザイン活動を行ない[1]、1937年に米国へ亡命し、シカゴにニュー・バウハウスを設立し、バウハウスのデザイン教育理念を新天地アメリカに根付かせようと奔走、1944年にはシカゴデザイン研究所(en)に発展させた。
ここでの教育方式はイリノイ工科大学に引き継がれ、石元泰博をはじめ日本人も多く学び[1]、理念は現在まで残っている。
写真家としては、前衛的かつ実験的なフォトグラムやフォトモンタージュなどの写真作品を多く制作し、ドイツ新興写真(ノイエ・フォト)の雄の1人として世界に名を馳せた。バウハウスにおいて写真の分野が隆盛を誇ることができたのも、モホリ=ナジによる積極的な作品の発表に拠るところが大きい。
1946年死の直前に『動きのなかの視覚』(Vision in Motion )を出版、視覚芸術に関する名著として知られる。写真に関しても記述があるが、『絵画・写真・映画』の構成主義的合目的性よりもより社会的、心理学的な要素が大きくなっている[1]。
ナジの所説の影響はアンリ・カルティエ=ブレッソンの初期作品、エルンスト・B・ハースによる写真の創造性と詩の関連における思考に見られる[1]。
1946年11月24日、白血病により死去。
現在、ハンガリーには彼の名前を冠した国立モホリ=ナジ芸術大学(Moholy-Nagy Művészeti Egyetem )がある。
作品
- 1 モホリ=ナジ・ラースローとは
- 2 モホリ=ナジ・ラースローの概要
- 3 名前の由来
- 4 参考文献
固有名詞の分類
写真家 |
ロベール・ドアノー リー・フリードランダー モホリ=ナジ・ラースロー ハインツ・ジールマン ドロシア・ラング |
ユダヤ人 |
ロマニオット マルツェル・ライヒ=ラニツキ モホリ=ナジ・ラースロー ヴァランティーヌ・ブロツキー モシャ・ピヤーデ |
ハンガリーの写真家 |
ブラッシャイ ムンカーチ・マールトン ロバート・キャパ モホリ=ナジ・ラースロー ケルテース・アンドル |
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