メキシコの歴史 メキシコ革命と制度的革命党体制の確立(1910年-1940年)

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メキシコの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/29 20:25 UTC 版)

メキシコ革命と制度的革命党体制の確立(1910年-1940年)

ディアス体制は経済拡大によってメキシコ史上初めての長期安定体制を築いたが、他方では大多数の民衆や労働者は植民地時代以来の貧困状態に置かれており、独裁制への不満を背景に、1906年に中産階級と労働者階級によってディアス独裁の打倒を目指すメキシコ自由党が設立され、失敗に終わったものの幾度かの蜂起が起きた。

このような不安定な情勢の中で、1908年にディアスが1910年の大統領選挙に出馬しないことを表明すると、メキシコ有数の資産家だったフランシスコ・マデーロが「公正な選挙とディアスの再選阻止」を掲げて選挙活動を行い、遂に1910年4月に大統領選挙に立候補したが、投票直前にマデーロは逮捕された。

しかし、マデーロの追放と、マデーロ自身による扇動をきっかけにしてメキシコ民衆によって同年11月にメキシコ各地で反乱が勃発し、チワワ州パンチョ・ビリャの反乱軍が北部を掌握すると、1911年2月にマデーロは亡命先のアメリカ合衆国から帰国し、3月には南部のモレーロス州からエミリアーノ・サパタの率いる反乱軍が決起するなど革命はもはや抑えがたい動きとなってメキシコ全土に波及した。

しかし、マデーロは5月11日にディアス政権と和平協約を結び、革命運動の中止を布告した。1911年11月の選挙でマデーロは圧倒的な支持を得て大統領に就任したが、革命派内部の路線の違いが明らかになった。特に土地改革を求めるサパタ派(サパティスタ)は11月25日にアヤラ計画を発表し、メキシコ史上初の農地改革を支配地で実践し、政府軍と敵対することになった。また、ビクトリアーノ・ウエルタ将軍によってパンチョ・ビリャは逮捕され、初期の革命派の主要人物の殆どがマデーロ陣営から消えると、事態を収拾できなくなったマデーロ政権は1913年2月9日にアメリカ合衆国の大使と結びついたウエルタ将軍のクーデターによって崩壊し、マデーロ一派は虐殺された。

しかし、ウエルタ政権はアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン政権によって不承認されたため、コアウイラ州ベヌスティアーノ・カランサソノーラ州アルバロ・オブレゴンが蜂起し、革命は第二段階に入った。一方、北部のチワワ州ではパンチョ・ビリャが亡命先のアメリカ合衆国から帰国し、1914年にビリャの率いる北部軍は北部を完全に掌握した。また、モレーロス州のエミリアーノ・サパタ率いる南部軍は支配地で農地改革を実践し、強力な基盤を築いた。ウィルソン政権は革命派を支援する目的で1914年4月にアメリカ海兵隊をベラクルスに派遣し、ウエルタ政権による海外貿易を封鎖すると、勝機を失ったウエルタは7月に亡命した。

ウエルタ政権の崩壊後、革命四派路線の違いから二陣営に分かれて対立することになった。1914年12月に北部のビリャと南部のサパタがメヒコ市に入城し、主導権を握ったが、カランサとオブレゴンはこれに対して共同して戦いを挑み、1916年にはカランサによる主導権が確立した。しかし、大地主出身で保守的なカランサは対外的には強硬策を採ったものの、内政面では革命による社会改革を拒否し、これをみかねたオブレゴン派の急進自由主義者によって1917年憲法が制定された。

その後も内戦は続き、1919年にはだまし討ちでサパタを暗殺し、カランサは内戦を終結させて全メキシコの支配権を確立したが、既に労働者や農民の支持を失っており、更には同盟者だったオブレゴンをも敵に回したため、1920年に旧サパタ派と結んだオブレゴンの反乱によってカランサ政権は崩壊し、同年5月9日にオブレゴンはメヒコ市に入城した。

オブレゴンはゲリラ戦を続けていたビリャ派を武装解除し、サパタ派が求めていながらカランサ時代に停滞していた農地改革も再び実施された。1920年9月にオブレゴンは正式に選挙を経て同年12月1日に大統領に就任した。現在12月1日はメキシコの大統領の日となっている。

オブレゴンは農地改革と軍制改革を実行し、地方軍閥をメキシコ連邦軍に統合したが、この措置はメキシコ軍内の反対に遭い、1923年にデ・ラ・ウエルタ将軍が軍の約4割を動員して反乱を起こした。オブレゴンは反乱軍を破ったが、両勢力の弾圧によって多くの犠牲者が出た。

1924年に就任したプルタルコ・エリアス・カリェスはオブレゴンと同様にソノーラ州の出身だったが、国家の非宗教化政策を進めたためにカトリック教会との対立が強まり、1927年1月1日にカトリック信者の一群が蜂起し、クリステロ戦争が勃発した。その後、1928年にオブレゴンが暗殺されると、1929年の国民革命党の結成を境にカリェスは黒幕として再び政界に進出し、メキシコの政治を事実上支配した。

1920年代はオブレゴンを初めとしてソノーラ州出身者によって大統領職が独占され、再建期と呼ばれることになった。この時期にメキシコの民族意識の高揚や、地方軍閥の統合、経済の再建、農地改革が進み、ニカラグアでのサンディーノ戦争ではアメリカ海兵隊と戦うサンディーノを支援するなど独自外交も続いたが、1929年の世界恐慌勃発後には、革命政権は右傾化し、腐敗の様相を帯び始めていた。

1934年カルデナス政権が成立した。当初カルデナスはカリェスの傀儡政権としての色彩が強かったが、1935年6月に民衆の支持を背景にカリェスをアメリカ合衆国に追放し、カリェス派は政治から排除された。カリェス派の追放後、カルデナスは革命後停滞していた農地改革や、労働者保護、軍制改革を行い、さらにボリビアに次いでラテンアメリカ二番目となるアメリカ合衆国資本の鉄道や石油会社の国有化を断行し、1940年にはメキシコ石油公社が設立され、国民経済の確立に努めた。また、文化面ではインディヘニスモの称揚や、国立工業大学の設立が行われた。スペイン内戦に対しては共和派を支援して政治亡命者を多数受け入れ、ソビエト連邦から追放されたレフ・トロツキーの亡命をも受け入れるなど自主外交が進み、カルデナス政権期にメキシコ革命は一つの完成を遂げた。

文化面では、革命後の民族意識の高揚と共に初代教育相ホセ・バスコンセロスによってメキシコ壁画運動が推進され、バスコンセロスの発表した『宇宙的人種』(1925年)によってメキシコの国民意識の起源をインディヘナに求めるインディヘニスモ運動が確立した。







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