ボグド・ハーン 私生活と宮殿

ボグド・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/25 09:47 UTC 版)

私生活と宮殿

テンジン・ドンドグラム

ジェプツンダンバ・ホトクト8世は僧侶にもかかわらず、テンジン・ドンドグラム英語版という名の、エヘ・ダギナ(荼枳尼天母)として知られていた妻を娶っていた。彼女は1923年に死去した。 テンジン・ドンドグラム王妃の死後、ゲネピルという名の北方出身の女性が王妃の座に選ばれるが、一年も経たずして1924年、ジェプツンダンバ・ホトクト8世が逝去する。その後、ゲネピル英語版は実家に戻り生活するが、モンゴル人民共和国スターリン派による粛清英語版により1938年に処刑されることになる。

ボグド・ハーンの夏の宮殿跡地には政府宮殿が建っている。冬の離宮は保存され、今はウランバートルの観光名所となっている。

年号

発言

ジェプツンダンバ・ホトクト8世からすれば、乾燥した大地にをまいて、草原を砂漠に変えてしまう中国人はまさに生態の破壊者であり、自らの故郷を守り、不倶戴天の敵を追放するプロセスのなかで、草原に侵入してきた中国人を指して、以下のような命令を出した[8]

中国人とつきあうな! 中国人のまねをしたりすれば、死ぬ。モンゴルの各地に入って、草原を開墾して大地を黄色くしてしまった中国人どもを殲滅させよう。南へむかって駿馬を駆ってうってでよう。 — ジェプツンダンバ・ホトクト活仏

関連項目

脚注


注釈

  1. ^ その要因は、ジェプツンタンパ2世が、かならずしも朝に忠実な行動をとらなかったことだと考えられている。[3]

出典

  1. ^ Sanders, Alan J. K. (2008). "Chronology". Historical Dictionary of Laos (Third ed.). Scarecrow Press. pp. xlvii. ISBN 9780810861916
  2. ^ a b c d 二木博史 2007, p. 71
  3. ^ 二木博史 2007, p. 83
  4. ^ Baabar, Bat-Ėrdėniĭn Baabar, Christopher Kaplonski, Twentieth century Mongolia1 , White Horse Press, 1999, p.188.
  5. ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所〈PHP新書 ; 387〉、2006年。ISBN 4569648800NCID BA75563767https://id.ndl.go.jp/bib/000008096660 
  6. ^ 『モンゴル史』(1), p. 526, 第4章注(二〇).
  7. ^ 『モンゴル史』(1), p. 260.
  8. ^ 楊海英『遊牧民からみた「文明の生態史観」』河出書房新社〈梅棹忠夫---地球時代の知の巨人〉、2011年4月14日、141頁。ISBN 4309977529 


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