ビートたけしのオールナイトニッポン 番組終了とその後

ビートたけしのオールナイトニッポン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 09:39 UTC 版)

番組終了とその後

たけしは1989年の暮れ頃から番組降板を申し入れていた。

たけしにとっては漫才ブームの頃から唯一担当し続けていた番組であり、またインタビュー等でも「この番組のファンが一番オレの事を分かってくれている」と語り、フライデー事件後の復帰も当番組を選ぶなど愛着もあった。スタッフ側としては当番組は当初より衰えたとは言え依然人気があり、「あと3ヶ月だけ、あと半年だけ」とたけしサイドを説き伏せて番組を続行していた。しかし映画監督など次のステップを踏み出そうとしていた事もあり、「10年で区切りをつけたい」という本人の意志で終了する事となった。

1990年12月27日の最終回当日、ニッポン放送は関係者一同が赤絨毯でたけしを迎え、名場面集などを放送。スタジオには関係者数十人が、社屋周辺には終了を惜しむ数百人のリスナーが詰めかけた。通常エンディングは一同声を合わせて「せーの、バイビ〜!」と言っていたが最終回のみ、たけし1人で「ありがとう、さようなら」と言って番組とリスナーに別れを告げた。

2000年代に入ってたけしは、フライデー事件で『オールナイトニッポン』は基本的に終わっていたと振り返っている[26]。番組開始と同時にいち早くコラムで取り上げて面白さを伝えた作家の小林信彦も、1990年の番組終了時に内容的には5年前に終わっていたとしている[27][28]

また、2017年4月6日に放送されたフジテレビ系の番組「ビートたけしの私が嫉妬したスゴい人」の総合司会として出演した際にも[29]、この人気のあった番組の終了について、「8年目(1987年ごろ)ぐらいでもうダメだ」と思い[30]、「適切な言葉が…しゃべりたいんだけど(出ないようになった)」として[29]、「『損得』っていうか『忖度(そんたく)』か、(『とく』と『たく』を)間違える。それで高田(文夫)先生におれあんまりしゃべれなくなってるよ、アドリブが効かなくなった、って(言った)」ことを告白した上で[30]、「だからあの番組の後半(の5年間)は自分でも恥ずかしいぐらい手を抜いてるんだよ」とも告白し[30]、この時点で降板することを決意したと告白した[29]

なお本番組終了後、1991年2月13日から始まったフジテレビの深夜番組『北野ファンクラブ』は高田文夫と同窓会的に本番組の名残として始められた番組だった[31]


  1. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、49頁。 
  2. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、49-50頁。 
  3. ^ a b 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、50頁。 
  4. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、50-51頁。 
  5. ^ a b c d 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、51頁。 
  6. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、51-52頁。 
  7. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、52頁。 
  8. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、52-53頁。 
  9. ^ a b たけし、オールナイトニッポン参入の理由は“ほかの漫才師への不満”「ブームももう終わりだなと…」」『スポーツニッポン』、2019年9月17日。2019年9月18日閲覧。
  10. ^ a b c 柳澤健『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』集英社、2016年、319-321頁。ISBN 978-4-08-781610-5 
  11. ^ 1984年1月〜1985年10月は水曜未明にあたる火曜1部を担当している。
  12. ^ 実際の番組終了は1982年7月31日。
  13. ^ 1987年10月からは夜ワイド『巨匠・高田文夫のラジオで行こう!』、1989年4月からは昼ワイド『文夫と明子のラジオビバリー昼ズ』と兼務。
  14. ^ “堀切ミロさん死去/スタイリスト”. 四国新聞. (2003年9月2日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20030902000429 2019年10月25日閲覧。 
  15. ^ プロレスラージャンボ鶴田がデビュー当時に歌った『ローリング・ドリーマー』から。
  16. ^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、pp.123。玉袋筋太郎インタビュー
  17. ^ 西条昇『トウキョウコメディアンの逆襲』光文社文庫、1998年、p.120
  18. ^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、pp.46-47。水道橋博士インタビュー。
  19. ^ ナンシー関「文庫版あとがき」『ビートたけしのおもわず幸せになってしまいました』扶桑社文庫、2001年、pp.238-241
  20. ^ 「関直美/ナンシー関 <余談だらけの>年表」『ナンシー関大全』文藝春秋、2003年、p.234
  21. ^ 2000年5月1日東京新聞夕刊「俳優・コメディアン・構成作家「マルチ才能」売り出し中 宮藤官九郎さん」
  22. ^ 伊藤愛子『視聴率の戦士 テレビクリエイター伝説』ぴあ、2003年、p.115
  23. ^ さくらももこ『(漫画版)ひとりずもう』第3回。小学館、集英社。
  24. ^ 『ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、p.2
  25. ^ 西村賢太「東京者がたり 第11回 六本木」『小説現代』2013年2月号、p.204
  26. ^ 北野武『時効』ロッキング・オン、2003年、p.38
  27. ^ 小林信彦『笑学百科』新潮文庫、1985年、pp.22-30,314-317
  28. ^ 小林信彦「一九九〇年・<笑い>の十代ニュース」『コラムにご用心 エンタテインメント評判記 1989〜92』筑摩書房、1992年、p.117
  29. ^ a b c “たけしが漫才をやめた理由「あれが出なくなった時に…」”. スポーツニッポン. (2017年4月6日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/04/06/kiji/20170406s00041000469000c.html 2017年4月7日閲覧。 
  30. ^ a b c “たけし 漫才やめた理由「言葉が出なくなった」”. デイリースポーツ. (2017年4月6日). https://www.daily.co.jp/gossip/2017/04/06/0010072594.shtml 2017年4月7日閲覧。 
  31. ^ 北野武『余生』ロッキング・オン、2001年、p.176
  32. ^ 【1980年代ラジオ伝説】第十五回 「計算尽くの暴れん坊 大竹まことの濃くて短い、深夜放送時代」”. Nicheee! (2009年11月10日). 2020年10月9日閲覧。
  33. ^ ANN50周年記念で「ビートたけしのオールナイトニッポン」が一夜限りの復活!





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