ニギハヤヒ 神武天皇と饒速日命の関係

ニギハヤヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 14:45 UTC 版)

神武天皇と饒速日命の関係

『日本書紀』と『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。

    磐船神社 本殿

神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から「東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいる」と聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野紀伊半島南端部)へ迂回して北上することにした。

菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。

すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命の天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った。

  石切劔箭神社 上之社拝殿

ただし、『先代旧事本紀』では、既に饒速日は復命せず現地で亡くなり、亡骸(なきがら)は速飄神(はやちのかみ)により天に上げられ、葬儀は七日七夜続いたとあり、神武東征の時点で彼は故人となっている。

石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。途中、豊前国宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。これが日本の国号の始まりとなった。当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術がないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れ、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で「長髄の者」と恐れられていた。その頃の鳥見一族の長、長髄彦饒速日尊の徳の高さに打たれ、尊のもたらした稲作や織物、製鉄の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った。この時二人の間を取り持ったのが長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)で後に尊との間に宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)をもうけた。

こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、大きな実りをもらすようになった。これが近畿地方の稲作文化の初めとなった。一方、鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、磐余彦(後の神武天皇)が日向高千穂から東へ進行を続け(神武東征)、やがて河内に上陸し孔舎衙坂で長髄彦と対峙した。戦いに敗れた磐余彦は紀伊方面に退却、紀伊半島を迂回し再び長髄彦と対峙する。この頃、既に饒速日尊は亡くなり、代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。宇摩志麻遅命は「天羽々矢」と歩靭(かちゆき)を、日の御子である証として磐余彦に差し出した。すると磐余彦からも同じものが示され天孫であることが明らかになった。宇摩志麻遅命は長髄彦に磐余彦への帰順をさとし自らも一族を率いて磐余彦に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてと天照大神から授かった『十種の瑞宝』を磐余彦に捧げた。こうして大和の統一が成し遂げられ磐余彦は始馭天下之天皇(神武天皇)に即位した。


注釈

  1. ^ 「物部」は、氏族の「モノノベ」と、警備を担う武士の「モノノフ」の読みがある。

出典

  1. ^ 『日本書紀 巻第三 神武天皇紀』「嘗有天神之子、乘天磐船自天降止、號曰櫛玉饒速日命」
  2. ^ 饒速日命墳墓(グーグルマップ)
  3. ^ 國史大系 巻7 所収「先代旧事本紀 巻第三『天神本紀』』, p. 118-.
  4. ^ 『日本書紀 巻第三 神武天皇紀』「及至饒速日命、乘天磐船、而翔行太虛也」
  5. ^ 飛行神社参照


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