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チョウスワー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/30 07:55 UTC 版)

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1287年、父ナラティーハパテが没したときはダラ(en:Dalet, Burma)の太守の地位にあった。父と長兄ウザナを殺害した異母兄弟ティハトゥの攻撃を撃退、ティハトゥの死後ナラティーハパテの子で唯一生き残った彼が王位を継いだ。1297年元朝との修好のため、長子のシムハパティ(信合八的)を朝貢の使節として派遣した際に王位を認められ[2]、同時に王国の領土と通商の安全を保証された[3]。チョウスワーはこの叙任を喜び、勅語の朗読を聞かせるため家臣全員に招集をかけたほどであった[4]。しかし、パガン王家とは別に元から王位を与えられていた有力者であるタイ系民族のシャン人の3兄弟は参加を拒み、皇太后ソウと共にチョウスワー廃立を企てた。

1299年タイ系民族の金歯族の略奪によって国が窮乏していることをテムル・ハーンに訴え、窮状を憐れんだテムルによって象の貢納を免除された。1299年、あるいは1300年に廃位され、殺害された。

19世紀に成立した『玻璃王宮大王統史』にはチョウスワーは3兄弟とソウの策略によって強制的に出家させられたと書かれるが、実際はチョウスワーとシムハパティ、彼が信任していた廷臣と僧侶が虐殺される政変が起きていた[5]

参考文献

  • G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』(東亜研究所訳、ユーラシア叢書、原書房、1976年)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)
  • 大野徹『謎の仏教王国パガン』(NHKブックス、日本放送出版協会、2002年11月)
  • 『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬



  1. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』214頁では1297年没、『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬では大徳4年(1300年)5月没。
  2. ^ 『元史』巻210、列伝第97、外夷3、緬
  3. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注)、160-161頁
  4. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、111頁
  5. ^ ハーヴェイ『ビルマ史』、112頁


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