ゾルディン条約 (1466年) ゾルディン条約 (1466年)の概要

ゾルディン条約 (1466年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 23:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ゾルディン条約(1466年)
署名 1466年1月21日
署名場所 ゾルディン
締約国 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世ポメラニア公エーリヒ2世英語版ヴァルティスラフ10世英語版
関連条約 第二次プレンツラウの和約
テンプレートを表示

概要

条約は子供なくして死去したポメラニア公オットー3世英語版の継承争いに一時的な決着をつけた。当時は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世、ポメラニア公エーリヒ2世とヴァルティスラフ10世が同時にオットー3世の遺領を請求した[2]

フリードリヒ2世、エーリヒ2世、ヴァルティスラフ10世はフリードリヒ3世の請求を無視して協議し、2人のポメラニア公が自身の相続分とオットー3世の領地をブランデンブルク選帝侯領の封土として受け取ることで合意したが[2]、条約の施行はポメラニア貴族の一部とシュテッティンの町が履行に拒否したため失敗に終わった[3]

エーリヒ2世とヴァルティスラフ10世も条約を履行せず、皇帝の宮廷で条約に反対する陰謀をめぐらした[3]。ブランデンブルクは軍事力で条約を履行させようとしたが、最初はあまり成功しなかった[4]。フリードリヒ3世は1469年に条約の無効を宣言したが[5]、1470年にはブランデンブルクの主張を認めた[6]

結局、ゾルディン条約は1472年5月の第二次プレンツラウの和約に取って代わられた。プレンツラウの和約では戦争の終結とポメラニアのブランデンブルク封土という地位を再確認した[7]

背景

ブランデンブルクとポメラニア公国ポメラニアの地位をめぐる長きにわたる紛争英語版の主役であった。ブランデンブルクがポメラニアを法的に封土として扱ったが、歴代ポメラニア公はその主張をはねつけてきた。歴代神聖ローマ皇帝はときにブランデンブルクの主張を、ときにポメラニア公の主張を受け入れた。そして、この紛争は度々戦争に発展した。ゾルディン条約の前に勃発した戦争は1444年から1448年まで、ポメラニアとブランデンブルクの両方が主張したウッケルマルク英語版をめぐって戦われた[8]。戦争を終結させた1448年の第一次プレンツラウの和約ではウッケルマルクがブランデンブルクとポメラニアの間で分割され[8]、ポメラニア公国自体もグライフ家の間で分割され、公爵たちがそれぞれ住居地から名付けられた分領を統治した。1455年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世がドイツ騎士団からノイマルク英語版を買い戻し[9]内陸国であるブランデンブルク選帝侯領からバルト海への出口を探そうとした[2]

ポメラニア公エーリヒ2世英語版

1450年代、ポメラニア公は領内のハンザ同盟加盟都市から激しい抵抗を受けた。シュトラールズントは1451年にポメラニア公を領主として承認することを拒否、1454年7月12日の講和でようやくポメラニア公と和解した[8]。1457年、シュトラールズントとグライフスヴァルトの市民がエーリヒ2世とその随員を襲撃したが、エーリヒ2世は間一髪で逃亡に成功した[8]。また1457年にはシュトラールズント、グライフスヴァルト、デミーン英語版アンクラムが反ポメラニア公同盟を締結した[10]

1459年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がそれまでの皇帝からポメラニア公に与えられた自由を全て取り消した[10]。同年、ポメラニア公エーリヒ1世の死により、エーリヒ2世がその遺領全ての継承権を主張、エーリヒ2世、ヴァルティスラフ10世、オットー3世の間で継承争いが発生した[10]。オットー3世とヴァルティスラフ10世は1459年9月6日にブランデンブルク選帝侯と、1462年7月27日にデンマークと反エーリヒ2世同盟を締結したが[10]、2人は1463年にエーリヒ2世と和解した[10]

1451年、黒死病がポメラニアを襲った[8]グライフ家の多くが疫病に倒れ、ポンメルン=シュテッティンを治めていたオットー3世もその1人だった[11][12]。彼が1464年9月10日に子供なくして死去すると[10]、ヴァルティスラフ10世とエーリヒ2世、そしてブランデンブルク選帝侯がポンメルン=シュテッティンを請求した[10][12]。交渉は1465年1月13日にプレンツラウ英語版で行われたが不調に終わり[1]、さらにフリードリヒ3世が最初にポメラニア公とブランデンブルクの主張を両方とも却下してポンメルン=シュテッティンを自領に併合しようとした[2]。3月21日、フリードリヒ3世がブランデンブルクの主張を認める文書を起草したが、文書はニュルンベルクに留め置かれ、ブランデンブルクは文書を3万7千グルデンで買い戻さなければならなかった[1][2]。選帝侯はお金が足りず[2]、文書が買い戻されることはなかった[1]。ブランデンブルクとポメラニアは4月から5月にかけてプレンツラウで交渉したが失敗に終わった[1]

条約の内容

ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世鉄歯侯

条約には下記の条項が含まれた。

  • ポメラニア公国ブランデンブルク選帝侯領の封土になる[2][3][9]。エーリヒ2世とヴァルティスラフ10世は選帝侯に忠誠を誓う。このことはポメラニア貴族の宣誓を影響せず[3]、ポメラニア貴族はポメラニア諸公とブランデンブルク選帝侯の両方に忠誠を誓わなければならない[2]。ブランデンブルク選帝侯は神聖ローマ皇帝にこの行動を正当化する必要があり[3]、忠誠が誓われるのはその後でなければならない[3]
  • ポメラニア諸公は公国の歳入を引き続き受け取る[3]
  • 公国内の封土は必ずポメラニア諸公とブランデンブルク選帝侯が共同で授ける[3]
  • ブランデンブルク選帝侯にはポメラニア公国を保護する義務が課される。さらに、ブランデンブルクとポメラニアは防衛同盟を締結する[3]
  • ポメラニア諸公はポメラニア貴族に過大な義務を課さず、一定の自由を保証する[3]
  • ブランデンブルクとポメラニアの間は自由貿易と自由通行が許可される[3]

  1. ^ a b c d e f Heitz (1995), p. 194.
  2. ^ a b c d e f g h i Materna (1995) p. 205.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Heitz (1995), p. 195.
  4. ^ Heitz (1995), pp. 196–199.
  5. ^ a b c d e f g Heitz (1995), p. 198.
  6. ^ a b c d e f g h i Heitz (1995), p. 199.
  7. ^ a b Heitz (1995), p. 200.
  8. ^ a b c d e Heitz (1995), p. 192.
  9. ^ a b Kroll (2006), p. 37.
  10. ^ a b c d e f g Heitz (1995), p. 193.
  11. ^ Buchholz (1999), p. 183.
  12. ^ a b Materna (1995), p. 204.
  13. ^ a b c d e Heitz (1995), p. 196.
  14. ^ a b c d e f Heitz (1995), p. 197.


「ゾルディン条約 (1466年)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ゾルディン条約 (1466年)」の関連用語

ゾルディン条約 (1466年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ゾルディン条約 (1466年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのゾルディン条約 (1466年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS