ゾルディン条約 (1466年)
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履行の失敗
3月10日、ヴァルティスラフ10世とフリードリヒ2世がガルツで会合し、ポメラニア貴族に忠誠を誓わせようとした[3]。しかし、注目の不足により儀式の取り消しを余儀なくされた[3]。4月26日、シュテッティンはフリードリヒ2世に手紙を送り、忠誠の誓いを拒否した[3]。フリードリヒ3世の宮廷にいたポメラニア代表ヤロスラウ・バルネコウ(Jaroslaw Barnekow)は夏の間から選帝侯の宗主権破棄を目指しており、10月14日にフリードリヒ3世がポメラニア公に自身の許可なしにポメラニア公国を他国の封土とすることを禁じたことで成功した[3]。帝国の決定の報せは1467年2月にポメラニアに届いた[3]。
その後
ブランデンブルク・ポメラニア戦争
1467年5月8日、メクレンブルクとザクセン選帝侯領はポメラニア諸公に条約を履行するよう警告、経済ボイコットで脅した。一方、ハンザ同盟、特にリューベックはシュテッティンの行動(ブランデンブルク選帝侯への忠誠の誓いの拒否)を支持した[13]。1468年5月2日、ブランデンブルクはシュテッティンに通告を送り、条約の履行を再度求め、戦争の脅威で脅したが、結局戦争は7月中旬に勃発した[13]。ブランデンブルクと同盟したメクレンブルクの軍勢はトレンゼ川を渡ってフォアポンメルンに入り、一方ブランデンブルク軍は南から攻撃した[13]。その後、ブランデンブルク軍は7月にレックニッツとガルツを略奪[2][13]、メクレンブルク軍も8月初にアルテントレプトウを略奪した[13]。ブランデンブルクとメクレンブルクがさらに軍を進めると、シュトラールズントとグライフスヴァルトが仲介して8月末に停戦した[14]。
しかし、停戦協定は守られなかった[14]。ポメラニア軍はブランデンブルク領に侵攻、9月7/8日にアルテントレプトウを奪回した[14]。9月21日に講和交渉が決裂すると、メクレンブルクはブランデンブルクとの同盟を更新した[14]。10月、ポメラニア軍はバーンを略奪、ガルツを強襲したが、ガルツへの強襲は失敗に終わった[14]。12月12日、ポメラニア代表ヤロスラウ・バルネコウ(Jaroslaw Barnekow)、ベルント・ブロッケ(Bernd Broke)、クラウス・ゴールトベック(Klaus Goldbeck)はプレンツラウで講和交渉を呼び掛けたが、ポメラニア軍による攻撃が継続していたためブランデンブルクに拒否された[14]。しかしその後もプレンツラウでの交渉は続き、1469年1月8日にはエーリヒ2世とヴァルティスラフ10世がプレンツラウの市場でゾルディン条約の順守を誓い、公国も8日内に忠誠を誓うとした[5]。15日、ポメラニア貴族の一部が選帝侯への宣誓を行ったが、5月にはシュテッティンが再びハンザ同盟の支援を受けて宣誓を拒否した[5]。一方、ポメラニア諸公はフリードリヒ3世に働きかけ、ゾルディン条約の無効を宣言させようとした[5]。
1469年7月14日、フリードリヒ3世は勅令を発してゾルディン条約を無効とし、ポメラニアを帝国直属と定め、ブランデンブルクによるポメラニア公国への攻撃を禁じた[5]。同日、ポメラニア軍がブランデンブルクのノイマルクに侵攻したが、シフェルバインの戦いで敗北した[5]。25日、ブランデンブルク選帝侯が反攻して[5]、30日にウッケルミュンデに軍を進めた[6]。シュトラールズントとシュテッティンの支援を受けたウッケルミュンデの町はブランデンブルクとメクレンブルクの連合軍により8月10日まで包囲された[6]。1469年10月21日、ポメラニアとメクレンブルクが講和条約を締結、片方がブランデンブルクと戦争した場合、もう片方に中立に留まる義務を課した[6]。1470年5月、エーリヒ2世が再びノイマルクに侵攻した[6]。
第二次プレンツラウの和約
1470年12月12日、フリードリヒ3世はブランデンブルクによるポンメルン=シュテッティンへの請求を確認した[6]。また1470年1月9日にはヤギェウォ朝ポーランド王国にブランデンブルクに加勢してポメラニアに対抗するよう求めた[6]。8月6日、フリードリヒ3世はポンメルン諸公にブランデンブルクによるポンメルン=シュテッティンの処分への妨害を禁じ、貴族たちにブランデンブルク選帝侯に忠誠を誓うよう命じた[6]。9月16日、ポメラニアとブランデンブルクはメシェリンで1472年6月24日までの停戦を合意した[6]。1472年5月30日、第二次プレンスラウの和約がブランデンブルクとポメラニアの間で締結され、紛争をブランデンブルクに有利な形で決着させた。すなわち、ブランデンブルクがポンメルン=シュテッティンを獲得した上、ポンメルン=ヴォルガストがブランデンブルクの封土になった[7]。
- ^ a b c d e f Heitz (1995), p. 194.
- ^ a b c d e f g h i Materna (1995) p. 205.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Heitz (1995), p. 195.
- ^ Heitz (1995), pp. 196–199.
- ^ a b c d e f g Heitz (1995), p. 198.
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- ^ a b Heitz (1995), p. 200.
- ^ a b c d e Heitz (1995), p. 192.
- ^ a b Kroll (2006), p. 37.
- ^ a b c d e f g Heitz (1995), p. 193.
- ^ Buchholz (1999), p. 183.
- ^ a b Materna (1995), p. 204.
- ^ a b c d e Heitz (1995), p. 196.
- ^ a b c d e f Heitz (1995), p. 197.
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