スマラン事件 背景

スマラン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 08:02 UTC 版)

背景

日本の敗戦

オランダ領東インド(蘭印)は、太平洋戦争初期に日本軍が占領した後、日本の統治下にあった。蘭印の中心地であるジャワ島には停戦前の連合国軍の上陸は無かった。インドネシアの独立準備は進められていたものの、実現していなかった。

1945年8月に太平洋戦争が日本の敗戦に終わると、蘭印ジャワ島駐屯の日本軍も連合国軍によって武装解除されることになった。イギリス軍を主体とした連合国軍のジャワ島進駐は、9月8日に捕虜救護要員がジャカルタ着、9月15日に4隻のイギリス艦隊が入港、9月25日に先遣隊がジャカルタ上陸と徐々に行われた[1]

連合国軍の占領部隊が到着するまでの治安維持は、8月26日に結ばれたラングーンでの連合国軍東南アジア司令部英語版と日本の南方軍の協定に基づき、日本軍が責任を負うものとされていた。進駐してきた連合国軍の兵力は微弱で、日本軍からの治安任務交代はゆっくりとしか進まなかった。なお、ラングーン協定では、日本軍は連合国軍の少将以上の命令には厳格かつ迅速に従うものとされており、必要に応じて日本軍に治安戦闘を命じる法的根拠とされた[2]

インドネシアの武器引き渡し要求

一方、8月17日にインドネシア独立宣言を発表したインドネシアの独立派は、予想されるオランダとの戦争に備えるために、日本軍に対して武器の引き渡しを要求した。しかし、日本軍はこの要求を拒んだ。また、日本の第7方面軍司令部は、インドネシア人から成る郷土防衛義勇軍兵補(日本軍の補助戦闘員)を解散させ、武器も回収するよう8月18日には命じていた。連合国軍からも、現地人の武器携帯を禁止することなどが命令されていた。

インドネシア独立派の日本軍に対する要求は次第に激しくなった。9月には日本軍の小部隊や倉庫を襲撃して武器の強奪を狙う者もあらわれた。連合国軍の進駐が進むにつれ、焦ったインドネシア側の行為はさらに過激化した。ジャワ島の日本軍第16軍司令官は、指揮下部隊に武器の使用を禁止する命令を発していたため、各部隊は対応に苦慮した。

東部ジャワのスラバヤでは、板挟みとなって困った日本軍東部防衛隊司令官らが、連合国軍が武器を引き取るよう求めた。これを受けてオランダ海軍のフェーエル(ハイヤー、ホイエル、Pieter Johannes Gerard Huijer)大佐は、10月3日に日本の提案に同意した。ところが、フェーエル大佐は、以後の治安維持は現地人警察に委ねるとしたため、東部ジャワの日本軍の所有武器の大半を独立派が入手する結果となった[1]

スラバヤでの引渡許可を先例に、インドネシア独立派は他の地域の日本軍にも同様の引き渡しを求めた。ジャワ西部のバンドンでは多数の住民が武装して集結し、日本軍の憲兵隊や自動車部隊、飛行場を襲撃したが、10月10日に日本軍西部防衛隊が鎮圧。日本兵3人とインドネシア人十数人が死亡した。インドネシアでは、この戦闘が以後の武力衝突の発端であるとしている[3]。このほか、同じくジャワ西部のガルーで工場の警備をしていた日本兵42人が無抵抗のまま全員殺害される事件や、竹下海軍大佐一行86人がブカシで拉致殺害される事件も起きた。竹下大佐らの事件ではスカルノ大統領署名の通行許可証を携帯していたが、武器提供を拒んできたことを理由に殺害されている[4]

スマランの状況

ジャワ中部のスマランには、戦時中に南方軍幹部候補生隊が置かれ、終戦時にはスンダ列島からマレー半島へ移動中の部隊を中心に約600人が滞留していた。マゲラン(スマラン南方50km)の中部防衛隊司令部(司令官:中村淳次少将)の管下にあり、スマラン現地では城戸進一郎少佐が指揮を執っていた[5]。なお、スマラン南方には外国人収容所があり、約3万人のオランダ系民間人が居住していた。

スマラン方面への連合国軍部隊の到着は遅く、10月中旬になっても日本軍がそのまま治安責任を負っていた。

中部ジャワでも武器引き渡し要求や治安の悪化は他の地域と同じであった。10月5日には、ジョグジャカルタ市で日本軍駐屯部隊300人が、武装した独立派の攻撃を受けている。ジョグジャカルタの日本軍は一旦は応戦したものの、翌朝、日本の民間人100人とともに投降した。武装解除された日本人は以後4ヵ月間投獄されて、赤痢と栄養失調で多数が死亡した[6]

スマランでは10月3日に現地独立派住民の代表者が城戸少佐を訪ね、治安回復に用いるためとして武器の引き渡しを求めた。城戸少佐は若干の武器を貸与名目で引き渡したが、状況は改善しなかった[5]。同日夜には飛行場の弾薬が略奪された。


  1. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室、457-458頁。
  2. ^ a b 秦ほか、271-273頁、「東南アジア独立戦争にかりだされた日本軍」(喜多義人担当)。
  3. ^ 加藤、232頁。
  4. ^ 加藤、235頁。
  5. ^ a b 加藤、233頁。
  6. ^ 加藤、236頁。
  7. ^ a b c d e 秦ほか、263-266頁、「スマラン事件」(小座野八光担当)。
  8. ^ 加藤、234頁。
  9. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室、458頁。
  10. ^ イ・ワヤン・バドリカ、292-293頁。
  11. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室、459頁。
  12. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室、461頁。
  13. ^ 加藤、237頁。





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