スパーヌウォン
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関連項目
- カルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマ - カルリスタ王位請求者だったが、チトー主義の信奉者となった。通称「赤い貴族」。
- エリーザベト・マリー・ペツネック - ハプスブルク家の大公女だったが、オーストリア社会民主党に入党した。通称「赤い皇女」。
参考文献
- “Souphanouvong Is Dead at 82; Laos Prince Helped Fight U.S.” (English). The New York Times. (1995年1月11日) 2010年11月28日閲覧。
- 青山利勝『ラオス ― インドシナ緩衝国家の肖像』(中公新書、1995年)
- 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」(石田暁恵編『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス ― 新たな課題への挑戦』アジア経済研究所、2002年3月)
- 山田紀彦「ラオス内戦史資料(1954年-1975年)」(武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告』アジア経済研究所、2002年3月)
- プーミー・ヴォンヴィチット『激動のラオス現代史を生きて ― 回想のわが生涯』(めこん、2010年)
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- ^ 青山(1995年)、112ページ
- ^ 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会」によると、パテート・ラーオは一般的にラオス独立運動や共産主義勢力を指して使用されるが、正式にはネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)の戦闘部隊を指す。
- ^ 日本共産党中央機関紙編集委員会(編)「ラオス人民民主共和国の樹立」『世界政治資料』第467号、日本共産党中央委員会、1975年12月25日、2頁、NDLJP:1409577/3。(要登録)
- ^ 「樹立されたラオス人民民主共和国(世界と日本) / 三浦 一夫」『前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌』第391号、日本共産党中央委員会、1976年2月1日、246 - 249頁、NDLJP:2755824/128。(要登録)
- ^ 【共同】「スファヌボン大統領が休職」『朝日新聞』1986年11月2日
- ^ 【RP】「スファヌボン大統領健在」『朝日新聞』1987年9月11日
- ^ 「「赤い殿下」退く スファヌボン氏 ラオスの闘士 議長職を辞任」『朝日新聞』1988年10月21日
- ^ 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会」、136ページ
- 1 スパーヌウォンとは
- 2 スパーヌウォンの概要
- 3 関連項目
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