オリガ・ユーリエヴナ オリガ・ユーリエヴナの概要

オリガ・ユーリエヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 07:53 UTC 版)

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オリガ・ユーリエヴナ
Ольга Юрьевна

称号 ガーリチ公
死去 1182年7月4日
埋葬 ウラジーミル、ボゴロディチンスキー教会
配偶者 ガーリチ公ヤロスラフ
子女 エフロシニヤ
ウラジーミル
ヴィシェスラヴァ
家名 リューリク家
父親 スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母親 クマン人ハンアエパの娘
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1150年ガーリチ公ヤロスラフと結婚した。1173年ガーリチ公国の内紛のために、息子のウラジーミルと共にポーランド王国へ逃れた。ガーリチのボヤーレ(貴族)にはオリガ擁護に回る者もあり、その中のコンスタンチンはポーランドへ同行している。その後ルーツクトルチェスクを経て、最終的には兄弟のフセヴォロドが領有するウラジーミルに落ち着いた。死に際し、エヴフロシニヤ(エフロシニヤ)[注 2]という名でスヒマ(ru)(Схима / 修道院の苦行的戒律を受けた正教の僧[3])となった。ウラジーミルのボゴロディチンスキー教会(ru)に埋葬された。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。

  1. ^ ラヴレンチー年代記』の記述[1]と年代学に関する論文[2](意訳:ロシアの年代記の年代学)を元に算出。
  2. ^ 「エヴフロシニヤ」はロシア語: Евфросинияの「転写」による。「エフロシニヤ(Ефросиния)」の異体形。
  3. ^ ヴィシェスラヴァはオリガの子ではなく、オリガの孫(ウラジーミルの子)とする説もある[5]
  1. ^ ЛАВРЕНТЬЕВСКАЯ ЛЕТОПИСЬ
  2. ^ Бережков Н.Хронология русского летописания
  3. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1090
  4. ^ Wyrozumski J. L., Dzieje Polski piastowskiej: (VIII wiek — 1370). / Komitet red. Stanisław Grodziski. — Kraków: Fogra, 1999. — S. 153. — (Wielka historia Polski, 2)
  5. ^ Łaguna S., Rodowód Piastów. // Kwartalnik Historyczny, t. 11. — 1897. — S. 762—763


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